- 2008年4月 6日 00:10
- 1882年(明治15年)
西南戦争が平定された後、国内には自由民権の説が大いに起り、明治の政界に憲政の実施を促して、常に自由民権論を獅子吼しつつあった板垣退助は、各地に遊説を試み、明治15年3月、静岡地方に遊説し、岐阜県下に乗込んだのが同年4月5日、その翌6日には富茂登山麓の神道中教院に開かれた大懇親会に臨み、例の土佐癖を以て滔々2時間に亙る一大演説を試み、聴衆に大きな感激を与えたのでした。
しかし連日連夜の奮闘に、流石に疲労を覚えた板垣は、閉会に先立って旅館に引取ろうとした門前数歩の処で、愛知県士族の小学校教員で相原尚ずみという刺客のため、不意に凶刃を以て刺された。彼は痛手を押さえながら、
「板垣死すとも自由は死せず」
という例の千古の警句を以て、自由民権のため万丈の気焔を吐いたと云います。
凶刃を揮った相原は、かねて板垣とは反対論を固持しており、板垣を以て急進過激不忠不臣の「国賊」だと誤信し、このようなテロ行為に出たのでした。
板垣遭難の報が天下に報道されると、朝野は騒然、わけても自由党の驚愕と激昂とは一方ならず、檄を飛ばして同志の糾合を図った。中にも後藤象二郎の如きは、カエサルが刺された時のアントニウスもさながらの興奮で、
我輩はこれより直ちに岐阜に赴き、板垣の屍骸を壇上に構え、以て親友の為に弔合戦を決行しよう。我輩も又斬られたら板垣と共に枕を並べるのだ
と激語した程であったが、間もなく彼の負傷も急所を外れて生命に別状がないと分り、畏くも明治天皇には叡慮を悩ませ給い、特に勅使を御差遣になったので、自由党も次第に冷静に還って、事なきを得たのでした。
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