- 2008年4月12日 00:06
- 1871年(明治4年)

明治5年頃の東京・横浜間大森付近の電信架設作業
1871年(明治4年)4月12日の「弁官通達」に依りますと、宮城内(皇居)に電信が開設され、そこから横浜へ開通したと記されています。
今般城中へ電信機取設け、今12日より日日第九字(9時)より第四字まで工部省官員相詰候間、諸官省に於て横浜表へ電信便を以て申遣り度き儀は同所へ申出づ可候、此段心得の為め相達し候也
もっとも一般公衆用ではなく、あくまでも官用になります。
当時、東京と長崎との間にも着々と電信架設工事が進捗し、電信柱が建てられていました。
ところで、一般庶民にはどうもこの電信の理法が飲み込めずにいて、いろいろとデマが乱れ飛んでいました。
あたかもこれと時を同じくして、全国に戸籍調査が開始されていました。家毎に吏員が出張し、調査済の門口には番号札を貼り付けていましたが、純朴な未開の地方民は、これに対してとんでもない解釈を下します。
「この度お上では、番号順に民家を取り調べて、年頃の処女を一々書き上げた上、近い内には一人残らずその処女の生血を絞り取り、あの電信柱に塗るという事だが、あんな魔法の電信柱なんぞは我々の大敵だ、一本残らず倒してしまえ!」
と、それ以来、やたらと電信柱・電線の被害が起ったと云うのです。
何をどうしたらこのような発想になるのか、現在ではとても考えられない出来事です。
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