- 2008年4月23日 00:02
- 1867年(慶応3年)
マスト高く紅白の船印を掲げた「いろは丸」(45馬力、160トン)、坂本龍馬を船長とする海援隊にとっては、あたかも晴れの処女航海で、乗組の隊員一同も
「今日を始めと乗出す船は、稽古始めのいろは丸」
と歌声も朗らかに航海を続けましたが、出帆後4日目の23日、四ツ半(今の午後11時頃)、讃岐の箱の岬沖合にさしかかった頃、不幸にも濃霧のために、紀州藩の蒸気船「明光丸」(150馬力、887トン)と衝突して、あれよあれよという間にいろは丸は遂に沈没、乗員組一同が辛くも救助され、翌朝備後の鞆に引揚げました。
そこで「明光丸」の船長高柳楠之介と坂本との間に、責任問題で紛擾が起り、両船長互いに譲らず、あわや血の雨を降らそうとした処に、後藤進平が仲裁に入って、紀州藩から7万両の賠償金を支払うという事で事件の落着を見ました。
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