- 2008年5月 7日 00:02
- 1875年(明治8年)
樺太・千島交換条約
- 日本は樺太島(サハリン)にもつ権利をロシアに譲り、全島をロシア領とし、ラペルーズ海峡(宗谷海峡)を両国の境界とする
- ロシアはかわりにクリル諸島(千島列島)のウルップ島(得撫島)まで18島を日本に譲る
- ロシアは日本のオホーツク海、カムチャッカ諸港での通商航海と近海の漁業に最恵国待遇を与える(北洋漁業権)
- 現地住民(アイヌ)の去就は本人の意志に任せる
樺太、千島の所属問題については、江戸幕府の末期、既に日露両国の間に紛擾が続いて、明治新政府となってからも解決を見ず、ここにいよいよ樺太、千島の領土権を明らかにしておく必要に迫られました。
だいたい樺太の地は、間宮林蔵の探検測量に依って、初めて事を明らかにしたもので、文化年間当時からどしどし日本人が進出して、樺太も千島も我が経営開拓に任しておけば、疾からロシアの東方侵略を防いで、明治初年頃には、両方とも立派に日本の領土となっていたかもしれませんが、幕府の政治家にはそれだけの慧眼を有した者がいませんでした。
明治新政府の参議副島種臣は、
「千島は固より日本の領土であるが、所属の明らかでない樺太だけは、ロシア政府から200万円で買収しよう」
という事を主張し、ロシア公使との間にその内諾まで得ていました。
ところが、副島は「征韓論」で敗れた下野し、政府部内では、開拓使次官黒田清隆以下の北海道開拓を第一とする「樺太放棄論」が有力であったために、甚だ遺憾ながら、樺太と千島の交換条約となってしまったのでした。
当然ながら、従来日露雑居だった樺太の放棄には国内に非難を生じました。
さればこそ、日露戦争の大勝の結果、樺太全体を日本領土と主張したのは当然の権利でありながらも、ポーツマス条約の結果、樺太半分で止むなく譲歩したのでした。
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