- 2008年5月10日 00:03
- 1906年(明治39年)
日露戦争に大敗して以来、ロシア政府の威信は全く地に落ち、加えて農作の不作と戦後の経済逼迫と、苦境のどん底に陥り足掻いていました。
この虚に乗じた革命党は、大いに手翼を伸ばし、或は虚無主義、或は共産主義の輩が鬱勃と現われ、政府倒潰の運動はいよいよ熾烈となりました。すなわちロシアの憲法制定に次ぐ議会制度の誕生は、これらの革命運動を屏息させる窮余の国策なのでした。
しかるに、第一回ロシア議会が蓋を開けてみると、議員は政府反対党の過激派が最多数を占めて、極端な普通選挙法を主張し、人種、宗教及び階級に基づく特権の廃止と、各階級の自由平等に対する法律的保証を要求する他、大地主の土地を強制的に買収して、小作農民に付与すべしと叫ぶなど、諸般の制度に対して、根本的に改革断行を強請し、政府の提案にはてんで相手にせず、かえって政府の不信任を決議するに到ったので、7月23日には下院の解散を命ずると同時に、内閣総理ウィッテに代って、ストルイピンが首相に立ちます。
ストルイピンの剛毅不屈な愛国精神のお陰で、その後短年ながらもロシア帝国の露命を繋いだのでありました。
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