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火薬製造機、初めて輸入される

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圧磨機圧輪記念碑
圧磨機圧輪記念碑

1867年(慶應3年)5月12日、外国から初めて輸入された火薬製造の機械が横浜に荷着しました。

これより先、幕府の軍艦奉行支配たる沢太郎左衛門は、軍艦注文のためオランダへ派遣され、彼の国で造船衛や銃砲火薬改良などに就いて研究していました。研究に熱心な彼はベルギーにも渡り、ウエッテレン火薬製造場の一職工として住み込み、日夜研鑽を続けていましたが、日本に洋式の火薬製造機械が一台も無いのを残念に思い、向上に注文して送らせたのが、横浜に着いたのでした。

そこで、帰朝後は、小栗上野介の援助を得て、江戸の近郊瀧野川に火薬製造所を設け、土産の新機械を据付けようと、工事に着手の間際、明治維新の争乱に際会し、折角の機械類も暴徒のため破壊掠奪されそうになったので、船に機械を積んで銚子沖に避難したりした。

そんな訳で、火薬製造所の設立も数年後れ、1876年(明治9年)に漸く明治新政府に依って設立されました。

今でも同所内には沢の持帰った火薬製造機械が記念遺物として保存されています。
「圧磨機圧輪記念碑」(板橋区立加賀西公園内)
天文以来長い間伝わり火薬の製法に一大改良を加えた記念の遺物であり、同時に火薬界の恩人沢太郎左衛門を忍ぶ石碑とも見れます。

沢太郎左衛門 (1834年6月4日~1898年5月9日)
幕末~明治前期の海軍教官。幕臣の家に生まれる。
蘭学・砲術を学び、長崎海軍伝習生をへて軍艦操練所教授方出役。
1862年(文久2年)~1867年(慶應3年)に留学。帰国後、開陽丸艦長を務め、戊辰戦争のとき榎本武揚らと旧幕府軍艦を率いて脱走、箱館で新政府に抵抗
1869年(明治2年)降伏して投獄され、1872年出獄。開拓使・兵部省に出仕し、海軍兵学寮海軍兵学校)教官となる。
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