- 2008年5月26日 00:01
- 1905年(明治38年)
この報せを聞いた宮古島の人々は、一刻も猶予の場合ではないと、5月26日、この急を隣の八重山(石垣島)にある電信局まで知らせようと相談一決します。ところが一艘のの蒸気船があるはずもなく、そこで宮古島久松でも屈強の漁師垣花善・垣花清・与那覇蒲・与那覇松・与那覇蒲(同姓同名)の5名が選ばれます。
彼らは長さ9メートル足らずの刳り舟(丸木舟)に乗込み、力の限り、根限りエイヤエイヤと漕ぎ出すこと実に80余浬(約150km)、漁師が生業とはいえ、さすがに八重山(石垣島)に着いた時には、全身綿の如く、骨は砕けるかと思うほどの疲労が襲います。
さても不運なるか、折からの干潮のため港に入ることができず、止む無く満潮を待って港に入ること約15時間、さらに陸路を5時間走り27日の午前4時頃に漸く電信局へ駆け込んで急を告げることができたのでした。
電信は直ちに連合艦隊司令部へ報ぜられた。時既に1時間前に哨艦信濃丸より「敵艦見ゆ」との打電があった後でありましたが、この五勇士の天晴れの働きは後で明らかとなり、昭和11年海軍省より厚く表彰されました。
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