- 2008年6月 4日 00:56
- 1894年(明治27年)
1894年(明治27年)6月4日、後の男爵近藤廉平が川上操六将軍と軍事上の機密を守って固い約束をしたという逸話があります。
日清の国交漸く風雲急を告げ、朝鮮の警備の急務を感じた参謀本部では、時の参謀次長川上操六中将が、御用船の事に就いて密かに日本郵船会社副社長近藤廉平を訪ねます。
当時、清国の提督葉志超及び総兵聶士成とは2400名の兵と8門の砲を率いて、太沽、山海関の両地から軍艦平遠護衛の下に3艘の運送船を以て、6月6日牙山湾に向って出発するという謀報が入ったので、その対策として我国から混成一個師団を急派し、清兵を牙山方面に喰止めようという方略が樹てられたので、極秘の裡に急ぎ御用船を命ずることとなりました。
これが即ち川上操六、近藤廉平両氏の会見であります。
川上操六は御用船を命じた上で、更に言葉を改め
「この事は国家の一大事であるが、君も男として必ず秘密を守って呉れるでしょう」
と念を押した。すると近藤は、

近藤廉平
「私も日本に生まれた男子です。国家を思うの赤誠は断じて閣下に譲りはしません。此の秘密は閣下と私と二人しか知らぬ事ですから、若し萬一外に洩れたとすれば、その場合失礼ながら閣下と共に割腹して果てましょう」
と冷然と言い放ちました。川上中将も、その決然たる態度に初めて笑を見せ、
「近藤君、有難う、それでこそ私も安心だ。何分よろしく頼みますぞ」
「御国の為めです、立派にやってのけますから御安心下さい」
と両人は固い握手を交わしたのでした。
それから間もなく同社の船舶10艘が極秘の裡に宇品に急行、所定の任務を果した事は言うまでもありません。
次いで、日露戦争の直前にも、彼に対し極秘のうちに、御用船が命じられたのが、1904年(明治37年)1月5日の事でありました。
近藤廉平は、こうした隠れた功績に依り、男爵を授けられたのでした。
- Newer: 日本医学界の恩人、ベルツ博士来日
- Older: 日比谷公園の開設




