- 2008年6月22日 00:08
- 1872年(明治5年) | 聖徳記念絵画館

聖徳記念絵画館 壁画「中国西国巡幸鹿児島着御」
山内多門 筆
鹿児島市 奉納
明治5年6月22日
鹿児島
明治天皇の西国御巡幸の鳳輦に伴奉した西郷隆盛が久々に錦を飾って郷里の鹿児島へ入ったのが1872年(明治5年)6月22日の事でした。
島津氏の旧城を行在所と定め、大山県令が先導し、陸軍大将西郷隆盛の率いる御親兵が天皇御警衛の任に当り、堂々入城します。
御駐輦の間に、船形砲台に臨御、海陸攻守の操練を御覧になり、或は島津斉彬の創設になる大砲製造所や、陶器会社、紡績工場などに臨まれ、4日後の御発輦の筈でしたが、たまたま烈風のためやむなく5日間御駐輦遊ばされる事となりました。その間県下の士民は城外の練兵場に集まって、土地特有の舞踏や相撲を演じて天覧に供し奉ったと云います。
西郷隆盛は当時でこそ大将たり参議として威風辺りを払うの堂々たるものがありましたが、少年時代は微々たる藩録の家に育ち、おまけに兄弟が多かったので、父吉兵衛一家の生活も、なかなか楽ではありませんでした。そこで鹿児島から十数里隔たった水引村の豪家板垣興右衛門という人から、弘化3年と嘉永元年の2回に互り、200両の借金をしますが、父の代には一文の返済も出来ませんでした。借金当時、隆盛は既に21、22歳であったので、よく記憶していました。
西郷隆盛はそれから20数年、それが自分達の養育の為の借金だという事を、一日も忘れる事が出来ませんでした。久し振りで錦を飾って郷里の土を踏んだので、早速水引村の板垣家へ元金200両に利息として元金と同額、即ち倍額にして返済したので、板垣家でも痛く恐縮したという逸話があります。
借金の時の隆盛の添手紙を見ると、
御懇情を以て莫大なる金子を拝借し得、為めに多くの子供も生育致し、今日相当の身分と相成り、陛下の御供まで仰せつけられ、郷里の土を踏むを得た事も、単に御厚志に依るものと感銘深く、御返済のこと一日も忘却致さず候得共、家計不如意にて其儘に相過ぎ、誠に申訳なき次第に御座候、此度の帰省を幸、元利相添え債務相果し候上は、父が生前思い煩いおりし証文取揃え御返し下され度く、これを以て亡父を慰め度き所存に御座候
という意味のことが極めて鄭重に書かれています。
- Newer: 前島密、郵便事業視察に出帆
- Older: ドイツ留学最初の医学者、佐藤進
Comments:1
- のり坊 2008年6月22日 21:48
お晩です。
イタリア異人列伝ののり坊と申します。
「坂の上の雲」は、司馬さんの作品のなかでも大好きなものです。ただ、ボクはあちこち興味が拡散して、とても kaizerサンのように集中できずすみませぬ...
ときに、司馬さんは西郷に対しては思い入れがすこし足りなかったようですなあ。西郷は潔癖なひとだった。この手紙は多忙をぬっての即断即決、一気に書いて一気にカタをつけたと思われる。天皇の供奉をしながら、おやじの代に世話になったころの借金の完済...
いろいろ細かな事情はあるのでしょうが、西郷のやることはいちいち見事なものですね...



