- 2008年7月10日 00:03
- 1900年(明治33年)
この銅像の建設の由来は、実業家住友友忠が、1891年(明治24年)に別子銅山開坑200年を記念して、「大楠公」の一大銅像を鋳造しようと計画し、先づ畏き辺りに奉献を願出た処、直ちに御内許を得たのでした。
そこで、東京美術学校へ製作を依嘱した処、時の校長岡倉覚三(岡倉天心)の案に依り、その設計図案が募集されることになり、同校の第一期生であった岡倉秋水が見事当選したのでした。
銅像の服飾の考証は黒川真頼博士と、川崎千虎翁が担当し、楠公は高村光雲、甲冑の部分は山田鬼斎、太刀は加納夏雄、馬は高村光雲の高弟で、当時の馬の専門家を以て知られた後藤貞行が新海竹太郎を助手として担当するという具合に、各一流の専門家が相協力して成った一大総合芸術品で、台座まですっかり完成するまでに約10年を要しました。
銅像の高さは約4メートル、長さ約5.5メートル、銅の台座の高さ40センチ、全重量約6.7キロ、これを支える石の台座が高さが約4.4メートル、住友家より支出した経費総額37,000円となります。もっとも石の台座だけは宮内省にて築造されたものでした。
この英姿は、1333年(元弘3年)6月2日、正成時に39歳にて、船上山を出て給う後醍醐天皇の鳳輦を兵庫に御出迎へ申上げる当時の状況を模しています。
六月二日瑶与を回らさるる処に、楠多門兵衛正成、七千余騎にて参向す。其勢殊に男々しくぞ見えたりける。主上御簾を高く捲せて、正成を近く召され、大儀早速の功偏へに汝が忠戦にありと感じ仰せられければ、正成畏こまって是君の聖文神武の徳に依らずんば、微臣いかでか尺寸の謀を以て、強敵の圍を出づべく候はんと、功を辞して謙下す「太平記」巻第11
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