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明治初年に於ける東京の地価、1坪1銭5厘也

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1869年(明治2年)8月20日、明治新政府は東京市内の地所約916万6770坪を民間に払下げようとしました。

然しながら、当時の一坪の売価が、1銭5厘~2銭5厘(今のお金に換算すると150円~250円相当)であったとは、恐らく誰も信じられないことかと思われます。

 *1円=100銭=1000厘
 *当時の1円は、現在の1万円相当。
 *当時そば一杯の値段は5厘。(今のお金に換算すると50円)

これより先新政府は旧幕府側の大小名屋敷や旗本屋敷内は社寺地等の一切の土地を、政府へ返還せしめた為め広大な空地が生じました。そこで空地のままで置くより、産業開発のために桑や茶を植えたりあるいは畑にした方が好かろうというので、民間に払下げを許す事になり、

  • 麹町、虎ノ門、霞ヶ関、桜田辺りは千坪につき25円(25万円)
  • 飯田町、番町、永田町辺りは千坪につき20円(20万円)
  • 市ヶ谷、四谷、青山、牛込その他の地所は15円(15万円)

と定められ、普通の畑地として買取った者には42ヶ月間、税金を免除するという特典を与えました。そうした空地が、前にも述べたように916万坪以上もありましたが、さて買手は全く無く弱りました。

当時の規則として、地所を買った者はその区割に板塀を囲らす事になっていたので、

 「板塀に金がかかるから買うのは止しましょう」

と言って、誰もが尻込みをしました。

政府ではいつまでも空地のままで放って置けないので、日比谷を練兵場にしてみたり、その他の地所は富豪に勧めて、殆ど半ば強請的に千坪二千坪と区切って買取らせ、着々と処分を進めました。

だから明治初年には地所を買ってもそのまま畑にもしないで、板塀で囲ったまま、草茫々たる空地があちらにもこちらにも沢山見られたのでした。

今の東京駅前辺りは、三菱ヶ原と呼ばれて、停車場が建てられる直前まで草原のままで放任され、その草深い中に他殺死体が発見されたという、今から考えると嘘のような事実があります。京に田舎の文字通り、明治維新以来の東京は、茫漠たる原野と化し、日暮から通る者も無い往古の武蔵野に還ったような情態でありました。

こんな情態は5年や10年ではありませんでした。明治23年、陸軍省でも東京の空地を持余して、渋沢、大倉、岩崎、三井等の富豪を招き、懇談的に払下げの相談に及んだところ、誰一人引受手が無く、結局岩崎家が貧乏くじを引いたつもりで、10万坪を坪5円(5万円)当りで背負い込む事になりました。

そして荒地のままで放っておいたのが、明治27年に漸く二重橋前通りの正面中通りに、唯一軒初めて赤煉瓦の西洋館が建てられたのでした。

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