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遼陽会戦(首山堡の激戦)、橘少佐の戦死

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橘周太
橘周太

1904年(明治37年)8月31日は、日露戦争中の遼陽会戦の日に当り、9月4日の占領まで、敵も味方も激烈な戦闘が続けられました。

第一軍を黒木為楨、第二軍を奥保鞏、第四軍を野津道貫の各将軍が約14万の兵力を率いて、大山巌総司令官の統率の下に8月25日遼陽の総攻撃を開始したのに対し、クロパトキンの率いる敵の大軍は実に23万と称せられ、半永久的構築の金城鉄壁に陣して、寄せ来る日本軍を大いに迎撃つべく、築城工事は尚も進められて、日を経るに従って堅固なるばかりでありました。

しかも新手の兵は次から次と後送されていたので、大山総司令官は、総攻撃の開始が一日緩うすれば、それだけ敵の陣地構築を堅固にし、且つ兵力を増大するばかりだと考え、各軍団を三方から進めて、一挙に屠るべく猛烈に攻撃させました。

決死を期した勇猛な兵力の前には抗すべき敵も無く、第一軍は早くも太子河を渡って前進前進、その右岸にある黒英台の高地を占領、第二軍は首山堡を陥れ、第四軍は堅塁を撃破します。

各軍団、各隊の勇士の奮戦美談は枚挙に遑がありませんが、中でも第二軍に属する第三十四連隊の大隊長橘周太少佐の如きは、敵弾雨飛の間を物ともせず、隊の先頭に進んで、首山堡東南方の敵陣に肉迫しました。

時に部下の内田軍曹は、大隊長の負傷を、その淋漓たる血潮に依って発見し、思わず駈け寄って「大隊長殿、負傷されております。」と注意しましたが、橘は意に介せぬ様子で更に進撃しようとするので、内田軍曹は尚も追い縋り「包帯をいたしましょう」と勧めてみたのでした。

その声に振り返らばこそ、鮮血と汗に阿修羅のように猛り立った橘少佐は

橘少佐
橘少佐

「この機を逸すな、進め、進め」

と部下を督励するうち、最後の一弾は彼の急所を貫いて、そのまま壮烈な戦死を遂げてしまった。

橘少佐(死後中佐)最後の言葉は、

「本日は、皇太子殿下御誕生のめでたき吉日なり、ただ惜しむ、斯くの如く多くの部下を損傷し足ることを遺憾とす」

この部下をおもう私心ない言葉から、海軍の広瀬武夫中佐と並ぶ陸軍の軍神として有名となります。

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