- 2008年9月 4日 00:03
- 1869年(明治2年)
旅館の一間で夕食の箸を採ろうとした所に不意に闖入した長州藩の神代直人、越後の五十嵐貞利等数人のため、深手を負います。何分にも後方床の間の刀袈に手が遠くて、思わぬ不覚をとったのでした。大村の部下の一人安達幸之助は、主人を庇ってその場で斬られて一命を落しました。
当時大村は国民皆兵の大理想を主張し、陸軍兵制の一大改革運動に邁進して、着々実現の域に入ろうとしていました。即ち士農工商の差別なく、一人前の男子総てが国家の干城として一視同仁たるべしというのが大村の大眼目で、後の徴兵制度開設の原案でありました。
然るに当時各藩の武士の多くは、大村の新主張に反対を唱え、
「我々両刀を帯した武士に対し、百姓町人と肩を並べて鉄砲をかつげとは何事だ。大村は武士の魂の腐った国賊だ」
と頻りに憤慨していました。そして反対派の一派が、暴挙に出たのでしたが、刺客は何れも、大村の倒れたのを見て逸早く遁走します。
一時は上を下への大騒ぎとなりましたが、外科医が直ぐに駆けつけ、大村の傷の手当てをし、一命にかかわる程の重傷ではないと診断します。しかし当時の日本の幼稚な外科医には、とてもこの傷を縫えるような医者は居なかったのでした。
そこで西洋人の外科医を大阪から呼び寄せようとしましたが、京都は御所の在る土地柄であり、みだりにその裡に出入りすることを禁じており、ましてや紅毛人たる者は一歩も入京を許されぬ固い掟がありました。そこを明治新政府の大官大村のために、例外として許されるように再三願出ますが、遂に許されませんでした。
そこで止むなく、戸板に寝かせて大阪まで運びますが、許可を得ている間に、すっかり傷口は悪化し、大阪に着いた時には既に手遅れとなり、同年11月5日に遂に不帰の客となります。
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