- 2008年10月18日 21:36
- 1889年(明治22年)

1889年(明治22年)10月18日の午後4時5分、時の外務大臣大隈重信が馬車を駆って首相官邸を辞し、霞ヶ関の外務省に入り、正門に入りかけた処で、福岡玄洋社の一員来島恒喜のため爆弾を投げつけられ重傷を負った椿事が起りました。
当時大隈重信は、条約改正問題で国民有志から猛烈な反撃を受けていました。
条約改正問題は前にも話題で述べたように、日本と外国との条約に対等な権利義務を主張し、旧条約を破棄して帝国の面目を新たにする新条約に改正しよういう議論で、前井上外相以来紛糾を重ねて来たのでした。
即ち大隈案では、
「民事の訴訟に就て、原告被告のうちに外国人の関係があった場合には大審院に於て裁判するに当り、その国の判検事も立会い合議の上に判決する。その判検事は予め条約国の外人を任用して常設する」
というのでありました。つまり治外法権に代えて、大審院に外人法官を雇い入れようとする大隈案に対し、
「苟くも独立帝国の司法権に、外人の立入を許すとは何事だ、帝国の面目がそれで立つものか、不条理も甚だしい」
というのが、国民多数から受けた大隈反撃の与論でありました。法制局長井上毅が、その職を擲つ覚悟で、大隈の官邸に押しかけ、反対の攻撃を加えたのもこの時分でした。
こんな具合で当時の壮士間には、大隈を倒せという過激血気の士が、暗々裡に計画を進めるようになり、議論より先づ実行を選んだ来島が遂に挙に出て、爆弾が命中したと見るや、その場を去らず隠し持った短刀で自殺して相果てました。
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