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久田船長の最後(東海丸の遭難)

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1903年(明治36年)10月29日、日本郵船株式会社の東海丸が、津軽海峡の定期連絡航行中、烈しい吹雪と濃霧のため、ロシアの汽船プログレス号と衝突して、同船に大穴をあけられ、沈没前に乗組員一同を救助し、船長の久田佐助は船と共に運命を共にする悲壮な事件が起りました。

久田佐助船長は石川県鳳至郡鵜川村(現能登町字鵜川)の出身で、1889年(明治22年)、東京商船学校を卒業し、実習満期後日本郵船株式会社に入り、始め神戸、小樽間往復の和歌浦丸に乗組みます。

1900年(明治33年)の北清事変に際しては、御用船に乗組んで日本の軍事輸送に貢献し、勲五等に叙せられ瑞宝章を授与した殊勲の人でもあります。

この事件は、彼が函館・青森間定期連絡船東海丸の船長に任命された1903年(明治36年)6月15日から、約四ヶ月目の事でした。津軽海峡は平時でも波が高いのに、前日28日青森を解纜後間もなく、海上の荒模様は急に募り出し、加えて濃霧と吹雪のため、航路は全く暗中模索、荒波に弄されつつ、風波の鎮まるのを待つより外はありませんでした。

夜を徹して揉みに揉まれ、翌29日の暁闇には、渡島半島矢越岬の沖合に押流されていた事は乗組一同も気がついていませんでした。黒百も弁じない同じ海上に、ロシアのプログレス号が漂流し、あっという間に両船は衝突、東海丸の胴部に大穴があけられたのでした。

見る見るうちに船は傾きかけたので久田船長は船首から乗組員一同を指揮し、先づ船客を救出し、次いで船員の安全なのを見届けると、船長一人は沈み行く東海丸から一歩も離れようとせず、43歳を一期にその責任を全うして果てました。

この事件は美談として尋常小学新読本巻十に掲載され、彼の郷里の菅原神社境内には久田船長記念碑も建立されたのでした。

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Comments:2

船舶マニアの一人 2008年11月22日 11:39

久田船長の事は戦時中の国民学校の教科書習いました。
後年日本郵船の社史を見たら「東海丸」は事故喪失と
しか書いていなくて、衝突した「プログレス号」が
日露戦争で鹵獲されて日本郵船に払い下げになり、
「浦塩丸」と改名されて貨物船になったとの、史実を
発見しました。
「東海丸」の船名は後年の「T型貨物船」にも戦後の
タンカーにも使用されなかった様で(縁起が悪い)?
澤山汽船?に「東海丸」(大阪商船チャーター)が出来
て座礁委付で、2世が出来ていました。

船長 2009年2月 1日 20:00

久田船長の郷里で幼少時代を過ごしました。小学校、中学校の頃は、年一回の久田船長の慰霊祭に出席して、称える歌を歌ったことを記憶しています。

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