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剣豪斎藤弥九郎の晩年

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1869年(明治2年)11月4日の暁、大阪造幣寮(後の造幣局)に火事が起りました。

造幣寮の権判事斎藤弥九郎は72歳の老齢でありましたが、流石に幕末に鳴らした剣道の指南だけあって、六男の六郎之助を従えて真先に駆けつけ、狼狽して騒いでいる使用人に、「倉庫の重要書類を出したか?」と尋ねました。

使用人が、「アッ、うっかりしておりました。」というのを聞くと、手桶の水をザブリと頭から被って、阿修羅のように火炎の中に飛び込んで行きました。六郎之助も父に負けじと、同じように水を被ってその後から続きました。

斎藤父子の命懸けの働きで、重要書類だけは無事に取出すを得ましたが、そのため二人はは大火傷を負って病院に担ぎ込まれました。造幣頭井上馨が病院に見舞いに来て、源九郎の手を固く握りしめつつ、

「あんたは明治の大川友右衛門じゃ」

と言って感激の言葉を述べたのでした。

ちなみに大川友右衛門とは、講談『細川血達磨』で猛火中に飛込み、お家の重宝を割腹した腹中に収めて全うしたという美談の主であります。

斎藤弥九郎は、幕末の剣豪で神道無念流の達人、千葉周作(北辰一刀流)や桃井春蔵(鏡新明智流)とともに三傑と称された程の人物でありました。江戸の飯田町に練兵館という道場を開いて、盛んに少壮志士の腕を磨いたもので、長男新太郎(二代目弥九郎)、木戸孝允を始め、楠本正隆、渡邊昇ら後の明治新政府の大官達多数が、この道場から輩出しています。

かっては彰義隊一党が、彼を迎えて党首にしようとしましたが、彼は順逆の大義を説いて断然これを刎ねつけました。そうした彼も明治政府となってからは道場も廃れて更に振るわなくなり、常に脾肉の嘆に悩んでいましたが、間もなく大阪造幣寮の権判事に用いられたのでした。

なお火傷の方は平癒しますが、高齢のため東京に帰ります。

そして、1871年(明治4年)に病気により没します。

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