- 2008年11月26日 00:09
- 1904年(明治37年)

白襷隊
1904年(明治37年)11月26日、乃木希典大将の率いる第三軍は第四回旅順総攻撃を開始しました。
それまで前後三回に亙る旅順の総攻撃も、多大の犠牲を払いながらも予期の成果を見ていませんでした。しかしながら、陸海軍全局の作戦上により、旅順の攻略は焦眉の急であった為、軍は急ぎ第七師団を日本国内から派遣させ第三軍に編入させると共に、乃木司令官に対して
「今ヤ陸海軍ノ状況ハ、旅順口攻略ノ機ヲ緩ウスルヲ得サルモノアリ・・・」
との勅令が下されました。
かくて第三軍の将士は感激奮起、成功を誓って、11月26日午後1時を期して、旅順望台方面に対して、第四回総攻撃を開始したのでした。旅順の正面攻撃に固執する日本軍に対して、ロシア軍は高所の堅塁によって、大小の兵器を充分に備え、寄せてくる日本軍を狙い撃ちするため、日本軍はいたずらに肉弾を費やすのみで、戦況はいっこうに進捗しません。
そこで一先づ突撃を中止しますが、このまま黙することもできず、最後の手段として決死隊を組織することにします。各師団から選抜された約3,100名の将士は、中村覚少将を隊長として、銃剣による夜間の強行突撃を準備します。決死隊一同は白兵戦の折の敵味方の識別ができるようにと白布の襷をかけたことから、これを「白襷隊」(しろだすきたい)と称したのでした。
午後4時、乃木大将は隊員一同の士気を鼓舞して一場の訓示を与え、馬に酒樽を積まして贈りますが、隊長以下これをしりぞけて受けず、午後6時を以て進発します。
午後9時、一気呵成、側面より旅順市街を衝こうとしましたが、地雷原に引っかかり敵に発見されてしまいます。強烈な探照灯が白襷隊を照らし出し、まわりの砲台から弾丸が雨のように集中します。中村少将も重傷を負い、隊員多数が死傷し、敵援軍増加の中で、遂に退却のやむなきに至ったのでした。
27日午前1時30分、軍司令官は、最後の切り札も不成功に終ったのを知って、旅順正面攻撃の断念を決意し、攻撃の力点を二百三高地に移します。
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