- 2008年12月 3日 00:12
- 大山巌

陸軍大将大山巌元帥がまだ大山弥助と名乗っていた頃、薩摩藩中少壮の有志として時に22歳、大山弥助以下9名が薩摩藩から選抜されて、江川太郎左衛門の塾に入門したのが1863年(文久3年)12月3日の事でした。
同年7月上旬、薩摩藩がイギリスの艦隊と激戦した経験から、兵器の改良工夫は刻下の急務である考え、弥助以下を入門させる事となったので、当時の江川塾は江戸の芝新銭座(今の浜離宮庭園)に設けられていて、大鳥圭介が塾頭を勤め、塾生は多い時は50人位もあり、何れも各藩から選抜された秀才ばかりでした。
幕末の近代西洋流の砲術は、江川塾を中心として盛んになったもので、時代の先端を行く兵学者や兵器改良者は、皆ここから胚胎したと云えます。
大山弥助は、江川塾で砲術を学ぶだけでは飽き足らず、在塾中にも機を見て幕府の軍艦奉行勝海舟を訪ねて、度々教えも受けています。その時分、海舟の家には土佐の傑物坂本龍馬が身を寄せていましたので、弥助と龍馬とが膝を交えて国家を論ずる事もしばしばありました。
両者互いに譲らず、自分の信ずるところを主張して国家を論じ軍事を説いたようで、薩摩弁と土佐弁丸出しの討論は、はたから聞いているとお国自慢の口論のようにも聞こえましたが、陰では坂本は「弥助は薩摩でも骨のある男だ」と評し、大山は大山で「土佐の坂本は凄い男だ」と互いに尊敬しあっていたのでした。
弥助が江川塾から免許を受けたのは、翌年の1864年(元治元年)8月で、在塾中の研究のお陰で、後に発明されたのが有名な弥助砲です。

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