- 2008年12月 7日 04:47
- 1867年(慶応3年)
勤王の傑士坂本龍馬と中岡慎太郎の両人が、京都で暗殺されたことは、11月15日の話題で述べましたが、両傑士の不慮の死に痛く憤激した同士の各々が結束して、その仇と目指す新撰組を襲撃したのが、それから19日目の慶應3年12月7日の事でした。
新撰組が両人を襲撃したという証拠は、犯人の遺棄した覆物から手掛かりがあったので、菊屋峰吉という17歳の少年を間諜として、餅屋に化けさせ、新撰組屋敷付近に張り込ませていました。峰吉は路傍で餅を焼いて客を呼びながら、情報が入り次第同志へ内通します。
そして機いよいよ熟して、12月7日の夕刻、京都油小路の料亭天満屋に、仇と覗う紀州藩士三浦休太郎を始め新撰組多数が会していると知り、不意に襲撃したのが、中井庄五郎、陸奥源二郎、開雄之助、岩村精一郎、斎原治一郎、加納宗七、竹中与三郎など16名の土佐の陸援隊及び海援隊の壮士でありました。
同士一同は白鉢巻を締めました。これは同士の目印として、乱闘中に同士討をしないようにという用意のためであったばかりでなく、互いに決死を誓うためのものでありました。
一隊を三組分けて、討入組と表門、裏門両門の警衛組の三隊となり、討入組の中井庄五郎が真先に進んで、不意に天満屋の二階座敷に踏込んだのでした。
中井が、「三浦休太郎とは貴公か」と尋ねます。
三浦は新撰組二十数名と酒宴中でしたが、「如何にも三浦は拙者だ」という応答を聞くと、いきなり中井の太刀が閃きます。
三浦も上身をひねって、脇差の鞘を払った討入組も後から駆けつける。新撰組一同起って何れも自刃を抜きあわせて、ここに一大剣戦が展開されることとなりましたが、討入組が小勢ながら、充分の身支度が出来ているだけ優勢であり、斬入ってまたたくまに数人を斬倒した。
混戦半ば、新撰組は逃仕度のため燈火が消します。すると一方に声あって「三浦を討取ったぞ」と叫んだものがいましたので、討入組も本望を達したというので、拳銃一発を合図に敵を逐うのを止めて、天満屋を引揚げたのでした。
後で分った事ですが、「三浦を討取ったぞ」と呼んだのは敵の者で、その策略にまんまと乗せられたのでした。しかし、この討入りで、三浦休太郎に軽傷を負わせ、その他の者十数名を倒し、味方は中井庄五郎一人が刀折れて討死し、三人が手負いという戦功で、坂本、中岡両人の仇を討果し得ないまでも、同士の意気を示す事は出来たのでした。
かくて討入組の同士一党は、天満屋夜襲の翌12月8日、夜陰に紛れて京都を脱出し、紀州の高野山に登って義兵の名乗りを挙げます。これは斬られた坂本、中岡の両人を始め、田中顕助、伊藤俊輔などの予ねての計画で、朝廷でも岩倉具視、中山忠能、正親公薫が賛同して、高野山出張の内勅が授けられました。
そして間もなく鳥羽伏見の戦となり、高野山軍は官軍に相応じたのでした。
- Newer: 小御所会議
- Older: 日本最初の地下鉄道計画書が東京に立てられる



