- 2008年12月 9日 21:44
- 1867年(慶応3年)
新たに設けられた総裁、議定、参与の三職の外に、薩摩、土佐、越前、尾張の五藩主が召されて議事が進んだ。前土佐藩主山内容堂は、大政を奉還した徳川慶喜も列席さすべきだと論じ、参与の岩倉具視はこれに反対して堂々の意見を開陳する。大久保利通、後藤象二郎の論駁もあり、頗る議論沸騰します。
西郷隆盛はわざとこの朝議に列せず、大久保に一任して外部の警戒に万遺漏なきを期したのでした。
朝議は一旦休憩あって更に再開、議終ったのは夜の12頃となりましたが、岩倉は懐剣を呑んで、徳川派擁護の山内と議論遂に一致を見ねば、刺違えて死のうとまで覚悟を決めていましたので、後藤も事の成行を憂慮して、容堂を宥めて帰邸させ、遂に岩倉説が勝を占めるに到ったのでした。
すなわち勅裁を仰いで、前将軍徳川慶喜自信より、辞表を奏請し、領地を返納させる事に一決したのです。
この小御所会議こそ、幕末維新の分水嶺であり、歴史の幕の一大暗転で、岩倉の頑張りは大きな功を奏したのでした。
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