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薩摩屋敷焼討事件と福沢諭吉

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福沢諭吉
福沢諭吉

1867年(慶応3年)12月25日、江戸幕府の断末魔の喘ぎに、王政復古派を憎んで、江戸高輪の薩摩屋敷に大砲を放ち、その焼討を敢えて行ったのが、庄内藩を始め各藩の佐幕派でした。

当時薩摩屋敷には、気骨稜々たる薩摩藩士を始め水戸の浪士等もいて、倒幕の策略を練っておりましたが、不意に猛烈な大砲を撃ちかけられたのだからたまりません。伊牟田尚平以下60余人が砲火に炎上する屋敷を後にして、品川に難を逃れ、そこに碇泊中の薩摩の軍艦に乗って兵庫へと引上げました。

即ちこれが戊辰戦争の導火線となったのでした。

ところで、ちょうどこの日、慶応義塾の創立者である福沢諭吉が、江戸の芝新銭座(現在の浜松町)に塾を開くため、屋敷を買取ったエピソードがあります。

福沢の鉄砲洲の塾も門人が多くなり間に合わなくなったので、新銭座の有馬中屋敷300坪を350両で買取る約束が成立し、木村摂津守の用人大橋栄二との間にいよいよ12月25日譲渡と相成ったが、折り悪く薩摩屋敷の焼打事件でごった返していました。

気の早い付近の民家では家財道具を担いで避難する者もあり、今に江戸の町中が戦乱の巷になりそうな騒ぎでしたが、そこに福沢諭吉が約束の現金を持って、木村の屋敷に出向いてきたのでした。

驚いた用人の大橋は、

「途方もない、この騒ぎの中に屋敷を買おうという馬鹿があるものか。もし本当に買いたければこの際の事だから、100両が50両でも捨値で買えるじゃないか。わざわざ350両持参するとは愚の骨頂だ。」

と言って金を受取ろうとしません。

しかし、福沢は、

「いや、そりゃいかん、一旦男が約束したものを、一文でも負けては買いたくない。後になって人から、あれ見よ、あの屋敷は福沢がドサクサ紛れに買ったのなどと言われたくはない。」

と言って遂に先約通り屋敷を買い取ります。

ここに福沢塾の名を改め、慶應年間に開いたという理由により、「慶應義塾」が誕生したのでした。

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