- 2009年1月27日 00:01
- 1868年(明治元年) | 大山巌

大山弥助(後の大山巌元帥)
時は1868年(慶應4年・明治元年)1月27日、厳然たる禁令を破って京都の地に西洋人を迎え入れたというエピソードがあります。
あたかも当時は鳥羽伏見の戦いの直後で、京都の相国寺内の薩摩病院には、官軍の傷病兵が多数収容されていました。これを治療する医者も多数集まってはいましたが、鉄砲傷や刀傷の重傷者が多くて、とても漢方医などの手には負えず、名誉の負傷者も段々悪化するばかりか、助かる者も助からないという状態でありました。
これを見て躍起となったのが薩摩の隊長大山弥助(後の大山巌元帥)でした。
江戸幕府の攘夷令以来、長崎や兵庫、横浜の地なら兎に角、御所の在る京都の地に西洋人を踏み入れさせるが如きはもっての外であり、土地の穢れだという厳然たる掟があったにも拘らず、大山弥助は兵庫へ急行して西洋の外科医を連れてくると出掛けてしまいます。
これを知った西郷吉之助(西郷隆盛)は
「そりゃいかん、例えどんな理由があるにしろ、一応のお届けはせんけりゃ不可ん」
と言うので、1月24日朝廷へ願書を上提、大久保利通もまた公儀への斡旋に何かと骨を折った。
一方、兵庫へ急行した大山弥助は、イギリスの公使パークスに頼んで、外科医のウイリアム・ウィリスと通訳のメーソン・サトーなどを雇入れると、直ぐに同伴して汽船で大阪に着き、さらに淀川を小船で溯って伏見へ着いたのが1月27日でありました。
大山は覚悟を決めており、もしお上からお咎めがあったら、俺一人が腹を切れば好いのだと。
船を上ろうとすると、同じ薩摩藩の五番隊長野津七右衛門(後の野津鎮雄中将)が一小隊ばかりの兵を従えて待機していたのでした。
「おや、俺を縛りに来たのか」
と思っていると、野津隊長はニッコリして、
「弥助どん、お上のお許しが出たぞ、西郷どんが西洋医者雇入れにつき願書を上提してくれて、先刻お許が出たばかりだ。この通り護衛兵を率いて迎えに来たのだ。」
と聞いて大山も大喜び、そこで無事にウィリス一行を京都に入れて、傷病兵の治療に当ったのでした。
ウィリスが当時の献身的努力には、大いに人々を感動させ、西洋医学の格段の進歩にも感服したと云いますが、されそれ以来、西洋人の入京を許されたかというとそうでもありません。
例えば、その翌年の明治2年9月、大村益次郎が京都の木屋町で凶漢に襲われ、不慮の重傷を負った当時は、西洋の外科医を呼ぼうとしましたが、土地が京都であったので許されませんでした。再度事を分けて願出ましたが許されません。
もちろん日本の漢方医等の手当てを受けましたが、傷は悪化するばかりで重傷となり、止む無く戸板で運んで大阪に行き、そこで始めて西洋医に診てもらいましたが、もうその時は手遅れで、尊い命脈を縮めてしまったのでした。(この時、戸板で運んだ一人が児玉源太郎です。)
それにしても、大山弥助の大英断は、逸話中の逸話として特筆されるものであります。
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