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白瀬中尉、南極に日章旗を掲ぐ

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白瀬矗
白瀬矗

1912年(明治45年)1月28日は、日本の南極探検一番乗りの勇士である白瀬矗(しらせのぶ)中尉の一行が南極圏内に入り、南緯80度5分、西経156度37分の地点に到着した記念の日です。

白瀬中尉の南極探検の計画に対しては、当時の総理大臣桂太郎を始め、児玉源太郎元帥、乃木希典大将らも大いに尽力し、乃木大将に関しては一行の糧食方面の面倒を見たし、さらに東郷平八郎元帥に関しては探検船に「開南丸」と命名したのでした。

こんな具合で民間からも、小、中、大学生の団体や全国の有志者から、激励の書状や寄付金が続々と届けられ、その額10万円に達したので、白瀬中尉の一行27名も勇躍、盛大な壮行会の中、1910年(明治43年)11月29日、品川湾を出発して万里の壮途に上ったのでした。

開南丸
開南丸

「開南丸」は僅か204トンの小船でありましたが、隊員一同船上生活にも寒さにも充分の自信がありました。殊に白瀬隊長は、それ以前に樺太やアラスカを踏査した勇士であり、南極の氷山に恐れはしませんでした。

ただ、船が赤道直下に進んだ時は大変な苦心をしたそうです。隊員はとにかく、連れて行った樺太犬の大部分が、熱気の為にバタバタと斃れたのにはすっかり弱ってしまいます。

1911年(明治44年)11月19日、シドニーで用意万端を整え、白瀬一行は一路南極大陸へと向います。やがて大陸の周囲に屹立する大氷場に達し、これに沿って進みながら、開南湾、大隈湾などと命名して鯨湾に進航します。

すると、この辺りに船影や人影は絶対に無いはずなのに碇泊中の一船を認めました。始めは海賊船ではないかと怪しみましたが、近づいて見るとこれがノルウェーの探検家アムンゼン一行の船と判明しました。アムンゼンは白瀬の一行より一足先に南極を踏破して既に凱旋の帰途であったのに、一行は痛くショックを受けます。

止むに止まれぬ鬱勃たる一行は、鯨湾より上陸して氷雪原を南東に進むこと実に180里の奥地、即ち前述の地点に到り日章旗を掲げ、後援者の芳名録を銅筒に入れてその下に埋めると、遥かに北方日本に向って、声も高らかに万歳を三唱、そしてこの付近一帯を大和雪原と命名して、帰途の途に就いたのでした。

白瀬中尉は、スコットやアムンゼンの如く南極征服とまでは行きませんでしたが、その偉業は後世にまで語り継がれます。

後に、アメリカの南極探検家バード少将が、同地を探検して、アメリカの領土としてしまいますが、1935年(昭和10年)の10月、日本外務省に対し、

「この土地はアメリカの領土としていたが、既に白瀬中尉探検の地と分明した為、改めて日本へ返上する」

という意味の通告があったのでした。

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