- 2009年3月 3日 00:28
- 1873年(明治6年) | 聖徳記念絵画館
この一行は、琉球国王尚泰を「琉球藩王」と定める命を明治天皇から与えられた使臣でした。
時代は遡り、1609年(慶長14年)鹿児島藩主島津家久は徳川家康の許可を得て琉球を征服し、与論島以北の奄美諸島を割譲させ、慶賀使・謝恩使を江戸に派遣することで江戸幕府の従属を示させていました。一方で明の皇帝からも冊封を受け朝貢を行っていましたので、琉球王国は「両属」の立場となっていました。
江戸幕府が倒れた後も、「両属」の関係は保たれたままであった為、明治政府は、1872年(明治5年)琉球国を廃し琉球藩を設置することにします。
明治政府の要請で首里王府は維新慶賀使を派遣、明治政府は尚泰を「琉球藩王」とする詔を与え、華族に列すると共に、3万円を賜り、住居も東京に遷させます。
前年の1871年(明治4年)、宮古島民が台湾に漂着、54人が殺害される琉球漂流民殺害事件がおきました。明治政府は琉球国を日本国へ併合するための措置、俗に云う「琉球処分」を急ぎ、将来の廃藩置県を見込みながら、すでに全国で廃された藩を設置するという方法をとります。
1875年(明治8年)、明治政府ははじめて、琉球と清国との関係断絶を図ります。内務官僚の松田道之が琉球に派遣され、清国への朝貢差し止めを命じたのでした。
王府内では種々の抵抗が試みられましたが、1879年(明治12年)4月、遂に処分は断行され、琉球藩を廃し沖縄県とします。軍隊・警察官の動員により首里城は明け渡され、琉球王国は名実共に崩壊したのでした。




