- 2009年4月 5日 00:05
- 1882年(明治15年) | 聖徳記念絵画館

聖徳記念絵画館 壁画「条約改正会議」
上野広一 筆
侯爵 井上勝之助 奉納
1882年(明治15年)4月5日
外務省
1882年(明治15年)4月5日、外務卿井上馨は外務省で開かれた条約改正予議会第7回会議の於て、始めて内地開放を声明しました。
明治維新以来、日本は旧幕府時代に締結された安政条約を不平等条約と考えていました。日本の重要問題であった条約改正の端緒は、岩倉具視大使の欧米派遣に始まり、寺島宗則外務卿の関税自主権の回復を目指すも、未だにその成果を得ていませんでした。
日本が不平等条約と考えるように、諸外国も日本に対して不満を持っていました。特に最大の不満は、日本が内地開放に応じなかったことにあります。
そこで、外務卿に任命された井上馨は、条約改正を議するに先立ち、後来改正案の基礎となるべき事項を予め各国と商定する要ありと考え、各国任命する所の全権委員と条約改正予議会を外務省に開きます。
既にして1882年(明治15年)4月5日、その第7回会議を行うに当り、井上外務卿は、始めて我が法律に服従するを条件として、全国を外国人に開放する旨を声明したのでした。
井上外相は領事裁判権の撤廃及び関税自主権の一部回復を目指しますが、井上の欧化主義政策への反発、ノルマントン号事件、三大事件建白運動の激化により、条約改正の交渉は中止され、已む無く井上は辞任することになります。
後に、大隈重信、青木周蔵がこの任に当たりますが、大隈はテロで負傷し交渉を断念、青木は大津事件により引責辞任します。
代って陸奥宗光外相の明治27年7月に至り、日英通商航海条約が成立し、領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部回復、相互対等の最恵国待遇を得ます。
他各国との改正条約また相次いで締結せられ、明治32年遂にその実施を見るに至り、ここに始めて国権回復の実を収め、以て維新の大業に随伴する外交重大事業を完成するを得るのでした。
なお、関税自主権の関税回復は、1911年(明治44年)小村寿太郎外相の時、日米新通商航海条約調印により関税自主権を確立することになります。
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