- 2009年5月 5日 00:07
- 1902年(明治35年) | 正岡子規
1902年(明治35年)5月5日、正岡子規は新聞「日本」紙上に、『病牀六尺』の連載を始めます。
そこには子規のユーモアと生の執着を見ることができます。
病牀六尺これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には廣過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に觸れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして體をくつろぐ事も出来ない。甚しい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も體の動けない事がある。苦痛、煩悶、號泣、麻痺剤、僅かに一條の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其れでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其れさへ讀めないで苦しんで居る時も多いが、讀めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らず寝て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして「病牀六尺」一(五月五日)より
ある日、新聞社の古島一雄が生きているミイラのような子規の姿をを見るに忍びず、「病牀六尺」を休載をしたところ、子規はこう訴えます。
「僕の今日の生命は「病牀六尺」にあるのです。毎朝寝起には死ぬる程苦しいのです。其中で新聞をあけて病牀六尺を見ると僅に蘇るのです。今朝新聞を見た時の苦しさ。病牀六尺が無いので泣き出しました。どーもたまりません。若し出来るなら少しでも(半分でも)載せて戴いたら命が助かります。」
連載が100回に達した時、子規は
「病牀六尺」が百に満ちた。一日に一つとすれば百日過ぎたわけで、百日の日月は極めて短いものに相違ないが、それが余にとっては十年も過ぎたやうな感じがするのである。ほかの人にはないことであろうが、余のする事はこの頃では少し時間を要するものを思いつくと、これがいつまでつづくであらうかといふ事が初めから気になる「病牀六尺」百(八月二十日)より
と喜びと不安を述べています。
連載は127回(9月17日)まで続き、それは子規の死の二日前まで続くことになります。
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