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下関条約(日清講和条約)批准書を交換

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伊東巳代治全権大使の一行
伊東巳代治全権大使の一行
 *写真中央で椅子に腰を掛けているの伊東巳代治

馬関(下関)春帆楼の於ける日清講和条約は、1895年(明治28年)4月17日を以て調印し、20日明治天皇の批准を得、翌日平和克復の大詔煥発し、超えて5月8日、両国の条約批准書は清国芝罘(チーフー)に於て交換されました。

批准とは、全権委員が署名調印した条約を、締結国の元首その他国内法上定められた者が確認をする手続きであり、批准により当該条約に拘束されることへの同意を最終的に示すことを意味します。

依って日本は先に調印された講和条約に関して、三国(フランス、ドイツ、ロシア)干渉に依り条約破棄されることを恐れ、先づは既得権を確保することが先決とし、この批准書の交換を最優先課題とします。

日本の批准書は内閣書記官長伊東巳代治が全権弁理大臣に任ぜられてこれを携え、清国は伍廷芳と聯芳両が同様全権弁理大臣となって会見します。

伍・聯両全権は総理衙門から批准書交換延期の訓令を受けていた為、交換の延期を要求してきます。あくまでも条約通り交換を求める伊東と対立しながらも、埒が明かない為、焦る伊東は三日間を限ってこの延期を承諾をする決意をすることになります。

この清国の動きは、勿論時間を稼いでフランス、ドイツ、ロシアに台湾条項の緩和を求めることにありました。

しかし、北京に於てドイツ、ロシアの両公使が総理衙門(総理各国事務衙門)を訪れ、批准書交換は条約にしたがい、5月8日に行うべきであると強く警告します。

期待が外れた清国は、このままでは自国が国際世論の支持を失うことを懼れ、さらには日本に再戦の理由を与えることでより不利な状況に陥ると判断し、慌てて延期要求の撤回をします。

こうして約束どおり8日を以て無事に批准書を交換し、ここに日清講和条約は成立し、日清戦争は終結したのでした。

ちなみに、清国が賠償金2億両を皆納した日が、3年後の1898年(明治31年)5月8日と同日となります。

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