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小林、向後両烈士の殉難

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1905年(明治38年)3月12日、日露戦争奉天会戦直後、秋山好古支隊長の命を受けた小林環大尉は、部下の向後三四郎伍長を率いて、開原から昌図、更に八面城方面へと馬車を進めました。これは最も危険かつ重大な敵情密偵の任務でした。

殊に昌図から奥地へ進めば、どうしてもロシア兵の陣地へ乗込む事となるので、軍服を脱ぎ捨て、汚れた木綿の綿入に着替え、顔や手足に泥をなすりつけ、ガタガタの荷車を馬に曳かせつ、土地の人さえ怪しまぬ程の土民に成り済まして、奥地へと奥地へと進んで行ったのでした。

ところが吉林の東北で、ミシチェンコ騎兵団から一応の取調を受けた際に、あまりにテキパキとした満州語の自供が却って怪しいと睨まれてしまい、ハルピンの俘虜収容所に捕われてしまいます。そのまま二人の消息は全く不明のままとなってしまいました。

それから30年過ぎた頃、ロシアの古い軍事雑誌に、「敵ながら天晴れな日本兵」という記事が発見されます。30年振りに二人のその後の消息が知られることになったのでした。

その記事に依りますと、もはや逃れぬものと覚悟した小林大尉は、責任を一身に負うて代りに向後伍長の命乞を嘆願ししますが、向後伍長は大尉の好意を却けて、はじめから生きて還らぬ覚悟でここまで来たのだから、一旦敵に捕われた以上、祖国の人々に見える面目は無し、国事に殉ずるは日本男児の本分であると、その潔い態度にロシアの係官は痛く感嘆させられたというものでした。

かくて1905年(明治38年)5月12日、互に笑を洩しつつ、小林大尉と向後伍長は共に銃殺の刑に処せられました。その刑場であるハルピンの郊外より、二人の遺骨が発見され、1935年(昭和10年)1月13日に盛大な慰霊祭が執行されたのでした。

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