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大井川、川越人足達の大リストラ

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金谷 大井川遠岸
歌川広重「金谷 大井川遠岸」(東海道五十三次)

時代劇テレビなどでお馴染みの川越人足の手引きによって渡河した大井川も、1871年(明治4年)5月1日、初めて渡船に代わります。

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」

と謳われた大井川は、遠江・駿河両国の境を流れる川で、川幅が広く急流のため架橋は困難であった為、江戸時代は歩行(徒)越によって渡河していました。

初め旅行者は勝手に渡河していましたが、大井川の川越はとても難しく危険が伴うため一定の渡場が決められ、川越人足の手引きによって渡河する制度が徳川幕府によって成立したのでした。

しかしながら、身分の上下を問わず人の命を肩に担って川を渡るので、人足達の意気も荒く、気に入らぬお客は河中で投げ出したり、金銭を強要する悪風もあった為、明治新政府は、徒渉制は交通を阻む要因と考え、大井川の名物輦台渡しや肩車を廃止し、渡船に改める事にしたのでした。(渡錢一人につき一銭八厘)

さてそこで問題となるのが、川越人足達の大多数のリストラです。

千数百人の川越人足達を失業させるのは可哀想だというので、各々七両の涙金を渡されて農夫となった者もいますが、その他の者は反対運動を起します。当時富士川の船大工達は、命ぜられて大井川の渡船を造っていましたが、川越人足達の反対運動を怖がり、夜中密かに焼津で船を造り、遠く海の方から回漕したと云います。

しかし時代の力には反抗もできず、人足達も止む無く船頭となる者もありました。

これはもちろん大井川に限ったことばかりではなく、東海道筋の酒匂川、興津川、安部川なども同時にまたは相前後して渡船の制に改められましたので、急に失業した者は川越人足ばかりでなく、川会所や川越問屋の川庄屋、小頭、年寄、帳付、馬指、人足指、飛脚番など、大井川だけでも1,500人あったといい、その大部分が職を離れたことになります。

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