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大久保利通、暗殺!(紀尾井坂の変)

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大久保利通
大久保利通

1878年(明治11年)5月14日、参議兼内務卿・大久保利通が参内の途中、紀尾井坂下で石川県士族島田一良ら6名に襲われ殺害されます。(紀尾井坂の変)

大久保利通は鹿児島藩士次右衛門の子として、1830年(天保元年)鹿児島に生れます。通称一蔵、または甲東と号し、西郷吉之助(西郷隆盛)とは竹馬の友であり、共に維新の大業に参画し、後に西郷、木戸孝允と共に明治維新の三傑と称せられました。

しかしながら、「征韓論」が起ると、大久保は西郷と意見を異にし、二人は遂に袂を分かちます。

その後大久保は内政と警察を掌握する内務省を設置。自ら参議兼内務卿として、殖産興業政策に全力をそそぐとともに、斬新的な立憲政体の樹立をめざすなど日本の近代化の推進につとめます。

1874年(明治7年)には清国に赴き台湾出兵の善後処理に従事。さらに相次ぐ保守派士族の反乱に強硬姿勢で対処しました。

1877年(明治10年)の西南戦争後、西郷を支持する不平士族の武力鎮圧を行って武力による反乱の無意味さを思い知らせる一方、地租を一時的に軽減することで農民層の反発を回避した。しかし不平士族の中には、西郷を慕うあまり、大久保に怨恨を持つ者多く、新政府に対する不満と相まって大久保への批判が集中していました。

この日午前8時、太政官に出勤しようと馬車に乗り、東霞ヶ関の邸を出て清水谷を通った。麹町の紀尾井坂(現東京都千代田区)当時この付近は寂を極め、両側の夏草茫々と繁っていたが、前路にしゃがんで草花を摘んでいたらしい6人の男、一斉に起上がって大久保の馬車に迫った。まず馬の脚に切り付け、御者も殺害する。大久保大喝して地上に降り立とうとした所を乱刀の下に斬り伏せられ、49歳を一期として、偉人の骸は夏草の間に横たわったのでした。

凶徒は石川県士族の島田一良(又は一郎)ら6人でした。島田らは鹿児島私学校の有司専制批判に同調して、萩の乱西南戦争い呼応を計画していましたが果たせず、大久保暗殺を企てます。

*有司専制の有司とは役人の意味で、少数の政府の有力者が専制政治を進めるという意味。

彼らは、斬姦状を捧げて自首します。この斬姦状には五項目の罪状があげられていましたが、彼らは大久保が政権を擅ままにして士民を抑圧すると思い込んでいました。

しかしながら、実のところ大久保はこうした士族の不満を察し、政府体制の改定計画を進めるため、内務卿を伊藤博文に譲り、自分は天皇周辺を管轄する宮内卿に就任するつもりでいたのでした。

彼らは、後にその心事と政策とを知り、深くその罪を悔いたと云います。

この事件の結果、政局の主導権は伊藤博文ら長州閥に移ることになります。

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