- 2009年5月26日 00:04
- 1904年(明治37年) | 乃木希典
乃木希典将軍が、日露戦争の出征に、いよいよ出発というその前日、東京の自邸で送別の宴を催したのが、1904年(明治37年)5月26日の事でした。
この日の将軍の日記に、
本日、皇太子殿下より拝領の清酒は、午後司令部にて分配。自宅にて鮨を作り、親族を招く。中尾氏勝武士(鰹節)一袋持参、葬式のこと遺言。夜11時廊を拝す
という簡潔な文面のうちにも、将軍の決意が記されています。
招かれた親類縁者には、静子夫人の手料理になるお鮨が出され、送別の宴半ばに、夫人への遺言が申し渡されます。
「さて勝典、保典、及び自分の三人とも戦場へ向った以上、生きて還る事は先づあるまい。三人のうち誰が真先に討死をしても、戦争が終るまでは葬いをしてくれるな。何れ三人の遺骨が揃った処で、親子三人一緒に棺を出してくれ。よいか」
と言うのでありました。
夫人は動ずる色もなく、「はい、仰せを守ります」と一言。この夫妻の泰然たる態度には、同席の親族の人々が却って寂として声なく、密かに涙を呑んだとい云います。
さて、ちょうどこの日は、南山の激戦の日でした。
第一、第三、第四の三個師団が、前夜来の猛雨と濃霧を冒して突撃また突撃、一方金州湾にある四隻の軍艦が、これに呼応して砲撃を加え、水陸両面から攻立てたので、さしもの堅塁も遂に潰滅、残敵は82門の山砲を棄てて辛くも旅順方面に逸走した。
この時の日本軍死傷者は約4,300人。多くの死傷者の中に、乃木将軍の長男勝典がいました。敵弾のため重傷を負い、野戦病院にかつぎ込まれ、間もなく28日絶命しました。乃木将軍の発途と僅か一日違いの事でした。
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