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星亨、刺殺される

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星亨
星亨(とおる)


1901年(明治34年)6月21日、東京市会議長星亨が市庁内で刺殺されました。(享年52歳)
犯人は四谷区学務委員の伊庭想太郎となります。

星亨は、その行動力から「押し通る」の異名で呼ばれた程の人でしたが、その一生は実に数奇を極めた生涯でありました。

星は嘉永3年、江戸築地の小田原町に生まれます。父は江戸の左官職人、母は相州浦賀の漁夫の娘。早くに父を亡くし、母は越後の医師を入夫に迎え、星はその許で養われます。少年の頃は家道の貧苦甚だしく、星は継父の調合する薬を行商して生計を立てました。

後に横浜に出て、医学を学び、また英学を修めます。さらに大阪に転じ何礼之塾に入り、ここで陸奥宗光と知り合います。

1870年(明治3年)、陸奥の知遇を得て大蔵省に入り、横浜税関長に転じ、英国に留学し、イギリスの弁護士資格を取得します。帰国後、代言人会長となり、1881年(明治14年)、自由党が組織されると星はこれに入党し、数年ならずしてその実権を手中に収めるに至ります。

1887年(明治20年)、保安条例にて東京を追われ、罪を得て入獄しますが、憲法発布の恩赦により出獄し、1891年(明治24年)の総選挙で栃木県から出馬して当選し、次いで衆議院の議長となり反対派から不信任をつきつけられても、傲然として議長の椅子に倚り、終には懲罰委員に附せられ衆議院より除名されてしまうことになります。

しかし、除名後の補欠選挙にまた当選し、以来衆議院の一員として、また自由党の領袖として推重されます。次いで駐米公使に任ぜられ、1900年(明治33年)、立憲政友会が発足すると憲政党を挙げて参加し、党内最大の実力者となります。

これより先、彼は東京市政に手を染め、遂に市会議長となります。この時偶々市会内に疑獄起こり、星の配下多く罪を獲、星もまた盛んに非難され、遂に刺客伊庭想太郎の為に東京市参事会の一室で刺殺されたのでした。

地方利益の誘導による党勢拡張という、日本型政党政治の原型をつくった人物とされます。

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