- 2009年6月30日 00:07
- 1898年(明治31年)

池部釣画「隈板内閣現わる」
1898年(明治31年)6月30日、第一次大隈重信内閣が発足します。我国最初の政党内閣の誕生でした。
地租増徴案を否決した第12議会が解散されると、大隈重信の自由党と板垣退助の進歩党両党は合同して単一民党「憲政党」を結成します。
辞職に追い込まれた伊藤博文前首相は、明治天皇に憲政党幹部の大隈重信と板垣退助へ後継内閣を譲るため大命降下を奏上してこれが実現します。これを俗に、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板内閣と呼びます。
隈板内閣の面々は以下となります。
- 総理大臣 大隈重信(佐賀、旧進歩)
- 外務大臣 大隈重信(佐賀、旧進歩)
- 内務大臣 板垣退助(高知、旧自由)
- 大蔵大臣 松田正久(佐賀)
- 陸軍大臣 桂太郎(山口)
- 海軍大臣 西郷従道(鹿児島)
- 司法大臣 大東義徹(滋賀、旧進歩)
- 文部大臣 尾崎幸雄(神奈川、旧進歩)
- 農商務大臣 大石正己(高知、旧進歩)
- 逓信大臣 林有三(高知、旧自由)
藩閥による首班持ち回りが続いていましたが、陸・海相以外はすべて非薩長出身者で固められました。内閣制定13年目にして漸く政党内閣が実現したのでした。
大隈・板垣共に政党の首領であるだけに議会に於ける強みが期待されましたが、しかし憲政党は内閣のポストをめぐって猛烈な猟官運動が行われ、文相尾崎幸雄が共和演説事件で辞任、後任に進歩党の犬養毅が就任すると、旧自由派は10月29日に党を分裂させます。我国最初の政党内閣は、何も政策も実現せずに総辞職したのでした。
党内で分裂の醜さは、昔も今も大して変りはありません・・・
ただこれも、伊藤博文が憲政党を潰すためにわざと政権を譲り、内閣分裂を目論んだ上での政権奪回策であったという見方もあります。
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