- 2009年7月 2日 00:48
- 東郷平八郎

23歳の時の東郷平八郎(写真後列の右)
1863年(文久3年)7月2日、薩摩一藩とイギリスの軍艦7隻とが、互に銃砲を交え戦火を開いた薩英戦争が起ります。
事の起こりはその前年の8月、武州の生麦に於て島津久光の行列を横切った英国人数名をその場で斬棄てた、いわゆる生麦事件の責任を問うため、同年6月27日クーパー提督率いるイギリス艦隊7隻が代理公使クールらを乗せ鹿児島湾に来航します。
イギリスは鹿児島藩に対し、犯人の逮捕処罰・25000ポンドの賠償金を要求しますが、島津家では行列を横切った無礼者を成敗するのは日本古来の固い掟であり、謝罪する筋は毛頭御座らぬと要求をはねつけてしまいます。
談判決裂の結果、イギリス側も強硬手段を行使し、この日の暴風雨を衝いて両軍放火を交えるに到ります。薩摩隼人の意気も盛んで、海防の事も整備していたので、各砲撃から一斉に砲口を開いて応戦します。
この時、東郷平八郎は17歳の初陣であり、彼は町田民部の手に属して旗本勢となり、初めは鶴丸城の二の丸を固めますが、その後は北西方に転戦して、警護の任に当ります。
また、後の海軍の父と呼ばれる山本権兵衛は、この時年齢僅かに12歳であり、戦争に参加する事のできないのを無念としながらも、砲弾運びや雑役を手伝います。
しかしながら、イギリス艦が撃ちだすアームストロング砲の着発信管付きの炸裂尖頭弾は、想像もしなかった威力を示し、7月2日・3日の交戦で鹿児島城下を焼き全砲台を大破します。さらに敵弾は鹿児島市街に落下し、火災を惹き起こし、市民は逃げまどいます。
ただ、イギリス側も旗艦艦長や副長が即死、60余人が死傷の損害を被った為、4日にはイギリス艦隊は、戦闘を中止し鹿児島湾を退去します。
東郷はこの戦争において、砲弾を円いものとばかりと思っていたのが、イギリス艦隊から発射された弾は尖頭長身の強大なもので、その破壊力もまた到底及ぶところではないと知り、今更の如く、彼我の兵器が、どれだけ劣っているかを知って、かつ驚き、かつ慨嘆したのでした。
また、実戦に参加した先輩の口から、「いかに味方の気が逸っても、優秀な敵艦に対しては、いかんともすることはできなかった」と口惜しげに述懐するのを聞いて、東郷は
「海から来る敵は、海で防がなければならない。」
という真理を会得し、そのためには強力な海軍力を持たなければならないと痛感します。これが東郷が海軍を志す所以となります。
これより鹿児島藩は9月28日から3回にわたり、横浜のイギリス公使館でニールと講和談判を行い、10月5日和議を設立、以後薩英関係は親密度を増し、鹿児島藩は軍備などの近代化をすすめるのでした。
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