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河井継之助、戦死

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河井継之助
河井継之助

1868年(慶應4年)8月16日、河井継之助は、官軍との長岡城攻防戦で負傷し会津へ逃れる途中で戦死しました。享年42歳。

長岡藩士河井継之助、名は秋義、蒼龍窟と号します。少にして佐久間象山の門に入り、長じて大槻盤渓・斉藤拙堂・古賀謹堂等に学びます。また、長崎に赴き、蘭人に交りて、つとに開港論を唱えます。

1862年(文久2年)、藩主牧野忠恭が京都所司代となるに及び、書を上りて国事を論じた。翌年忠恭老中となり、継之助擢でられてその側用人となる。郡奉行・町奉行から執政に進み、その間藩を説いて長州再征参加を中止させ、またその財政改革に務めた。これより彼の名、列藩の間に聞えるに至ります。

1867年(慶応3年)、藩主牧野忠訓に従って京に入り、大政奉還に反対。

1868年(慶應4年)、戊辰戦争開始後に長岡に帰り、藩を中立の立場にたたせた。北陸征討軍が迫ると、5月小千谷に東山道軍軍監岩村高俊を訪ね中立の趣旨を弁明するがいれられず、官軍に抗戦を決意します。

官軍に抵抗し、しばしばこれを悩ましますが衆寡敵せず城陥る。継之助は藩主に告別し、陥落した長岡城を奇襲により奪還しますがまた陥り、このおりの傷がもとで、会津へ赴く途中会津藩領大沼郡塩沢村で戦士します。

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Comments:1

匿名 2011年4月20日 01:27

最後の行、”戦士”ではなく”戦死”では?

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