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日清戦争「平壌の戦」

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日清役平壤戦
聖徳記念絵画館 壁画「日清役平壤戦」
金山平三 筆
神戸市 奉納
1894年(明治27年)9月15日
平壌

1894年(明治27年)9月15日、日本軍は清国軍と平壌にて戦闘を交えます。対清宣戦の大詔渙発以来、初の大戦にして、日清戦争に於ける最大の会戦となりました。

図は平壌戦中、陸軍少将大島義昌の混成第九師団奮闘の光景であり、馬上の人物は参謀長岡外史が描かれています。

平壌堡塁

牙山で敗退した清国軍は、平壌で日本軍を阻むため1万数千人を集結させます。

日本軍は陸軍中将野津道貫が統率の下に、第五師団に第三師団の一部を加え、四方より包囲攻撃するもの作戦に出て、陸軍大佐佐藤正の元山支隊は城の西北方より、陸軍少将立見尚文の朔寧支隊は北方より、陸軍少将大島義昌の混成第九師団は東方正面より攻め入ります。

そして、野津道貫が自ら率いる第五師団主力は南方よりし、14日四隊並び進み、15日未明より一斉に攻撃を開始します。同夕には清軍は夜陰にまぎれて敗走、翌16日朝に至り日本軍は平壌を占領します。

清軍戦死2,000人、捕虜600人、日本軍は戦死180人。

各方面の戦闘中、混成第九師団の正面攻撃は15日夜明けより苦戦10時間に亘り、就中、中碑街西側堡塁に向いて行いし突撃は最も猛烈を極めたのでした。

この平壌攻略の苦難を参謀長岡外史は自著『新日本の鹿島立』にて、次のように記しています。

長岡外史

此の時(両枝隊が予定地到達の報到着)旅団長閣下を始め、一同の喜びは非常なもので、雲霧を排して天日を見るといわんか、此の時の心時は、迚ても平時の今日、筆舌の能く形容し得る所ではない。旅団長の命を承けて、予が喜びの筆を走らせた朔寧支隊長への復牒は、次の如き趣意であった。

本日午前7時発せられたる閣下の通報は、午後3時47分之を落掌した。此の時間少し前に師団長閣下より、師団本隊は予定の如く渡河することが能きぬために、明後16日朔寧、元山両支隊の動静を見て、然る後平壌に前進しようと思うから、其れまでは平壌の敵を、当旅団方面に牽制すべき事を訓令せられたので、下官は貴支隊並びに元山支隊の兵力が、余りに少なく、而も敵の側面乃至背面に挺進しあることは頗る危険多きを顧慮し、且又両支隊の糧食が、果して能く17日まで維持され得るや否やを審にせず、若し行軍途中に於て、意外の拾いものを僥俸せられしか、或は非常なる食い延ばしをせられぬ限りは、飢餓に陥らるるの危惧ありと考えしを以て、兎も角当旅団は、明15日船橋里迄攻進して、直接敵を牽制しつつ、友軍支隊の戦況に依りては、多少の危険を冒すとも、平壌攻入りの挙に出ずべき旨を、只今師団長閣下に答申した所である。(後略)

9月17日の黄海海戦とともに開戦一ヶ月半で朝鮮半島の大勢を決したのでした。

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