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長州藩三家老の切腹

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徳川慶勝
尾張国名古屋藩主徳川慶勝

長州藩の益田右衛門介、福原越後、国司信濃の三家老を始め、宍戸左馬介、中村九郎、佐久間佐兵衛、竹内正兵衛などの四参謀が、藩の政策の犠牲となって切腹を命じられたのが、1864年(元治元年)11月12日の事でした。

上述の主謀者が尊皇攘夷の旗印も、蛤御門の衝突以来、禁門を騒乱の巷と化せしめた罪を問われ、朝廷と幕府の両面から責められて、長州一藩が孤立となり、全国30数藩の兵は尾張の徳川慶勝を総督として、長州征伐の軍令が発せられたのでした。

しかしながら、総督慶勝は始めから征長には気が進みませんでした。彼は平和的手段で解決は出来ないかと考えていたので、参謀の西郷吉之助を呼び、彼の意見を求めます。

西郷の意見では、

「長州の責任者を処分して謝罪させれば、大軍を動かし武力に訴えるまでもありますまい。外交多端の砌、同胞内に相鬩ぐが如きは、決して君国に忠なる所以ではない」

というのでした。

かくて岩国の吉川監物に上の主旨を含めて、長州の毛利藩父子を説得させます。

そのため萩の城内では11月11日、同藩の重臣会議が開かれ、太田市之進、香川敬三、山県狂介、時山直八、野村靖之介等のごときは

「30数藩の大軍を相手に、長州の正義と面目のため大いに戦おうではないか」

と主戦論も唱えましたが、恭順党の勢力が強い上に、吉川監物の恭順勧告もあったので、遂に三家老、四参謀が詰腹を切らされたのでした。

そして翌々14日には右の首級が総督府に届けられ、同時に長州征伐延期の歎願書が差出されます。

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