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高杉晋作らの外国公使襲撃未遂事件

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高杉晋作
「鼻輪を通さぬ離れ牛」と呼ばれた高杉晋作

1862年(文久2年)11月13日、神奈川に於て高杉晋作、志道聞多(後の井上馨)等の尊皇攘夷党の志士が、外国公使の襲撃を企てました。

この日、神奈川の下田屋旅館に勢揃いしたのは、高杉晋作、志道聞多の外に品川弥二郎、久坂玄瑞、山尾庸三、寺島忠三郎等といった血気盛んな同志ばかりで、○○国の公使が金沢へ遊覧に出かけるのを知って、その途中を襲いかかり、攘夷実行の旗挙げをしようと相談一決したのでした。

同年8月、薩摩の島津久光の行列が、英国人を斬棄てた生麦事件以来、攘夷党の志士達の熱情を煽って、義憤勃々たるものがあり、またその時分の幕府の重臣連は、西洋諸国の勢力に一目置いて、頻りに異国外交家の御機嫌をとるのが、勤王志士にとって甚だ心外であり、皇国の面目を傷つけるものだと慨嘆していました。

そこで今度こそ公使襲撃で幕府に一泡吹かせ、天下の耳目を一新させてやろうというのが彼等志士の考えでした。

すると武市半平太がこの事を聞きつけて、棄て置けぬ天下の一大事だと、山内容堂に急報したことで、直ぐに手が廻り、松延六郎が20数人の兵隊を率いて下田屋旅館に駆けつけます。

尋常の調停ではテコでも動かぬと察せられたので、特に勅使三条、姉小路の両公の使者だと言って、書状を手交しますが、それでも思い止まる彼等ではない。極力彼等を慰撫し、

「兎に角、蒲田の梅屋敷まで御足労願いたい。梅屋敷では他ならぬ毛利定廣公が一同に是非逢いたいと御待ちかねだから、その上で万全を期して事を決行されても遅くはあるまい」

と説得し、一同を梅屋敷へ案内します。

定廣は、容堂からの知らせで総てを承知していて、然も当時定廣は長州藩主に代わって京江戸の間に往来し、尊皇攘夷の大儀を主唱して国事に尽くしつつあった敏腕の重臣です。

志士一同何を言われるかと、梅屋敷に来て、その庭先にひれ伏します。

定廣、徐に口を開いて、

「事の次第は洩れ聞いた。一同の心中よく察するが、天晴れ将来有為の大人物たちが、責めを負うて腹を切るような事となれば、我が愛国党の味方を失う結果となるではないか。切に頻りに思うそち達にうくわつな真似はさしたくない」

と諄々に説かれ、一同叩頭して引下る外はありませんでした。

こうして一先づ事なきを得たが、高杉一党の攘夷実行熱は間もなく更に燃え上り、それから一ヶ月目の12月12日、品川の御殿山に、新築中の英国公使館の焼討を決行して、初めて溜飲を下げたのでした。

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Comments:2

世外 2010年4月26日 21:09

定廣公は、長州藩主のご後継です。

海座 2010年4月26日 23:10

>定廣公は、長州藩主のご後継です。
藩主と書くところを、誤って藩士と入力していました。
ご指摘ありがとうございます。

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