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西郷隆盛、僧月照と薩摩潟に投身

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西郷隆盛
西郷隆盛(西郷吉之助)

勤王僧の月照と西郷吉之助(後の西郷隆盛)の両人が、薩摩の三船沖に身投げしたのが、1858年(安政5年)11月16日の未明の事でした。

同年の9月、幕府の勤王攘夷攘夷党の大検挙は、京都を皮切りとして開始され、いわゆる安政の大獄が幕を開きます。

京都清水寺成就院の住職中将房月照は、予てから尊王の大義を唱えて同志と連絡を取り、近衛忠熙邸にも出入りして暗躍していたので、月照の身辺も危険となりました。

当時京都にあった薩摩の西郷吉之助も同藩の有馬新七等と都落の相談をしている処へ、近衛家からの相談で、月照を護って西下してくれと頼まれます。そこで西郷は9月10日の未明、月照を駕籠に乗せ、下僕の重助に荷物を負わせ、有村を従えて密かに京都の地を離れます。

伏見から船で淀川を下り、大阪の薩摩屋敷で10数日間滞在させ、更に一行は土佐堀から船を出して8昼夜で下関着、西郷は一足先に薩摩に発ったので、筑前の朝倉で平野国臣等と国事を談じながら隠棲していました。

そのうちに月照の人相書が各地に廻されて捜索愈々急となり、平野国臣も同伴して修験者の姿に変装し、薩摩の城下に入って、改めて西郷の保護に縋りますが、既にその時は、月照が薩摩方面に向ったという情報が流れて、捕吏の一隊が間近に迫っていたのでした。

こうなっては最早逃げる道はない。西郷が総てを断念して田原屋という旅宿に月照を訪ねた時は、直ぐ裏の磯辺に役人が船を曳いて待っていた。船は万古無限の感慨を乗せ、高く澄んだ満月に、海波を金玉に砕いて三船の岬あたりへ漕ぎ進みます。

船中に矢立を取った月照が、

「雲りなき心の月も薩摩潟沖の波間にやがて入りぬる」

の一首を詠めば、西郷答えて

「二つなき道にこの身を捨小舟波立たばとて風吹かばとて」

と詠んで、悲壮な決心を語りあいます。

間もなく同船の平野や重助、その他の役人も気付かぬ間に、両人は手に手をとって海中へ身を投げ出したのでした。平野が驚いて刀を抜きざま帆綱を断ち切り

「船を止めて両人を助けろ、早く」

と叫びます。

両人が堅く抱合ったまま骸となって浮上ったのを発見すると、華倉の岸辺に船を急がせ、火を焚いて応急手当をしたので、西郷だけは漸く息を吹返したが、月照は遂に46歳を一期として、帰らぬ旅に上ってしまった。

しかし表向は西郷も共に死んだとう事にして、幕府へ届出たので、その後の西郷の名も菊池源吾と改名し奄美大島に身を潜めます。

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