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天狗党の乱(筑波山事件)の終結

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1864年(元治元年)12月17日、水戸藩が尊王攘夷党の天狗党の乱(筑波山事件)も、進退遂に窮まり加賀藩の軍門に降ります。

事の始まりは1864年(元治元年)3月の末、勤王憂国の志士で水戸の藩士藤田小四郎が、同藩の田丸稲之衛門を説いて主将と仰ぎ、同志を集めて筑波山に立て籠もり、敢然として義旗を翻したのも、攘夷実行の朝廷に相応じ、これに反対の幕府を責めるためで、「一死以て叡慮の万一に報い奉るを得ば、我軍足れり」とする赤誠純情の青年党で、同志70人余が糾合します。

同志とは同じ水戸藩の文武館、小川館、潮来館に学んだ子弟で、何れも憂国熱血の少壮気鋭で、四方に激を飛ばして同志を告げるやら、また建白書を幕府の老中に呈して、尊王攘夷を速やかにせよと難詰するやら、一党の気鋭当るべからざるものがありました。

しかし腹が減っては戦はできず、軍資金調達の必要を感じ、4月の中旬には下野の太平山に陣を移して、付近の豪農豪商から資金の調達にかかります。この事は一般民間から天狗党が嫌われる一因をなし、とにかく評判は善くありませんでした。

その内に幕府は近接11藩に命じて天狗党の追討を命じたので、7月7日から9日にかけて常陸の高道祖村一帯(現在の茨城県下妻市の東部)で、接戦を演じ、始めは天狗党の敗色、後には下妻辺りで追討軍を散々に破り、天狗党が旗色を上げます。

その後、天狗党の間にも、追討軍同士の間にも、内訌が起こるようになり、義挙本来の精神が怪しくなってきます。しかし館山の武田耕雲斎と気脈相通じ、10月の末には筑波の同勢800余人となり、中山道北国路を廻り京都を目指して兵を進めます。

そして越前の木芽峠を越えて新保驛に着いた所で、加賀藩兵に食い止められ、各藩の兵が大津に大軍を布いて到底入京は覚束ないと諭され、一党遂に涙を呑んでその軍門に降ったのでした。その結末たるや誠に悲壮、350余人が斬罪、残りの400数十人が流罪追放の悲劇に終わりました。

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