- 2010年1月16日 02:00
- 1863年(文久3年)
土佐藩の傑物坂本龍馬が、勤王討幕の大望のため、同士と気脈を通じて脱藩を企てたのが、1862年(文久2年)の3月末の事でした。
勝海舟の門に入って航海の法や海戦の術を学んだのでしたが、龍馬の海舟を得たのは、あたかも龍の雲を得たようなもので、彼は漸く多年の宿望を達し得たのを非常に喜んだのでした。
幕府を倒そうという勤王家の龍馬が、幕府直属の軍艦奉行勝海舟の門に入って喜んだというのも、甚だ矛盾のようではありますが、海舟には時流を超越した政見がありました。即ち彼は幕府の大政奉還論者であり、同時に開国論者でありました。だから龍馬も心から海舟に敬服していたわけであります。
海舟もまた龍馬の如き異才が、自分の門下の一人となった事を非常に喜び、かつ信頼していたが、脱藩の身で世を憚らねばならぬ身の上に同情して、折があったら土佐藩の藩主なり重役を説いて、龍馬を帰藩させてやりたいと考えていました。
ちょうどその翌年の1863年(文久3年)1月16日、海舟が大阪から江戸へ帰る途中、伊豆の下田港で計らずも土佐藩の山内容堂公とばったりと出遭ったので、早速龍馬の帰藩を願い出ました。
「坂本如き将来ある大人物を浪人にしておくのは、本人の為めにもよくないと同時にに御藩のためにも大きな損失だと存じます。私からも本人を説いてお詫びに伺わせましょうから血気者の一時の出来心と深くお咎めなく、過ぎたる事は水に流していただきたい。」
と持ちかけると、容堂公も

山内容堂
「他ならぬ貴殿のお頼み、確かに承知しました」
と即座に承諾してくれたが、なお海舟は念を押して
「帰って本人にも御寛容の程を伝えねばなりません。ついては何ぞ証拠の品を頂けますまいか」
と言うと、容堂公は大笑いしながら、硯引寄せ扇子の面に大きな瓢箪の図を描き、その中に、
「歳酔三百六十回、鯨海酔侯」
とその度量のある所を示して
「これでよろしいか」
と渡してくれた。
龍馬の土佐帰藩を斡旋してくれたのは海舟ばかりではありませんでした。越前福井の藩主松平春嶽公も、京都で山内容堂公と同座した時、同じ相談を持ちかけました。

松平春嶽
容堂公も欣然
「ああその話でしたら、先般勝殿とも約束致しております。早速帰藩を叶えさしてやりましょう」
というので同年3月25日日付の達書に依って目出度く帰藩が許されたのでした。
そして改めて藩の命令により、海舟の門に入る事になりました。
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