- 2010年1月21日 00:32
- 1866年(慶応2年)

中岡慎太郎
1866年(慶應2年)1月21日、京都の小松帯刀の別邸で歴史的会見が遂げられます。
薩摩と長州両藩の勤王党の代表が、固い握手を交し、共に勤王討幕の大業に当ろうとした薩長連合の盟約が取交されたのでした。
事の起りは、土佐藩の勤王家中岡慎太郎がその前年の閏5月6日、薩摩に西郷吉之助を訪ねて、薩長両藩の連合を説いたのに始まります。
各藩個々の行きがかりの感情を打ち棄てて、この際国家の大事に励力すべきであるという、中岡の説には西郷も直ちに大賛成、しかし長州藩にその人と頼む高杉晋作や木戸準一郎(桂小五郎)などが、快く承知してくれるかどうか、それが心配だと言うと、
「いや、その事なら拙者が先方を説いて斡旋の労をとりましょう」
と話は調子よく進んだのでした。
すると今度は土佐藩の坂本龍馬が、同じ趣旨の許に説得にやって来たので、西郷もいよいよ乗気になります。
間もなく閏5月10日には、中岡、西郷の両人相携えて、長州の代表と会見のため、馬関(下関)に出向く事となり、坂本龍馬は先ず木戸を説いて西郷の来訪を待ち受ける処まで進みました。
ところが大事な主役の西郷が途中佐賀の関まで行くと、大久保から西郷への知らせで、藩命により火急上京せよとの書面を受取り、何事かと急ぎ上京したので、薩長代表の会見も止む無く一頓挫の形となってしまいます。
しかし内々では龍馬と中岡等の奔走で、両藩の意志は着々と相接近しつつありました。例えば幕府の封鎖で、長州藩が武器を購入出来ないで困っていると、薩摩の名義で輸入させたのも、龍馬の肝入でした。
すると年末には薩摩藩の黒田了介(清隆)が自ら乗出して、長州藩の木戸準一郎を熱心に説いて、京都で西郷と会見するように勧めます。
木戸はなかなか承知しそうにありませんでしたが、ちょうどその折坂本龍馬も馬関に来ていて、二人で口説き立てます。果ては藩主まで、
「行って会ってやれ」
というお声掛りに、木戸も遂にその気になって、お供には品川弥二郎、三好軍太郎、早川渡の3名、坂本龍馬は少し後れて上京する事になり、黒田了介と田中謙助、都合6名が相連立って上洛、京都の薩摩藩邸を訪れたのが、1866年(慶應2年)1月8日の事でした。
西郷は一行の来訪を知ると、伏見まで出迎えて大いに優遇し、桂小五郎、大久保利通等も来会、席を暖めます。
かくする中に20日となりましたが、しかしながら両藩連盟に関する具体的な話は何方からも切り出しませんでした。そこへ坂本龍馬が訪ねて来て、
「話は成立しましたか」
と尋ねると、木戸は不平そうに、
「私の方から切り出す話ではないから黙っているのだ」
という。
今度は西郷に詰って、
「せっかく長州藩から木戸氏が訪ねているのに、何故話を進めてくれないのか」
と言うと、
「実は貴公を待っていた。この話は貴公がいないとやり難い。それでは直ぐに始めよう」
といよいよ1月21日、小松帯刀の別邸に於て、小松、西郷、木戸、坂本4人が同席して、薩長盟約に関する諸条件を申合せ勤王討幕の秘密盟約は取交されました。
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