- 2010年2月22日 00:01
- 1864年(元治元年)

西郷吉之助(後の西郷隆盛)が奄美大島の流罪も解けて、めでたく赦免状に接したのが1864年(元治元年)2月22日の事でした。
西郷が、勤王党の急先鋒となって、盛んに暗躍を続けていた為、幕府に逐われて薩摩に帰りますが、島津藩主も江戸幕府の手前、その前年の6月、奄美大島群島中の沖水良群島に流罪を申渡したのであって、西郷にとって二度目の流罪でありました。
その始めは幕府に追われて身の置所もなく僧月照と薩摩の海に投身を企てたが、一人蘇生して奄美大島に3年間も流罪の身となり、ようよう呼返されて藩政改革に従ううち、島津久光の先発となって京都に上洛すると、勤王討幕党の志士は互いに呼応して暗中頻りに画策しているところであったので、西郷もその一味に加担しているとみなされ、直ぐに鹿児島に呼び返され、二度目の流罪となったのでした。
その頃薩摩の藩中には、佐幕派のものが勢力を占めて、寧ろ勤王党の志士は極めて少数の為、常に頭を抑えられていました。これを憤慨したのが京都の薩摩屋敷にいた柴山龍五郎、三島源兵衛、福山清蔵、相田要蔵、井上弥八郎等という十数名の勤王党で、
「近来頻に我党が揮わなくなったのは、党を率いて立つべき大人物の西郷吉之助がいない為だ。先づ何よりも西郷氏の赦免運動を起して、島から呼返してやろうではないか」
と相談一決したので、藩の重役高崎佐太郎、高崎五六の両人を通して、島津久光へ西郷の赦免を願い出ます。もし赦されなければ柴山一党何れも切腹する覚悟だと、頗る強硬に出たので、久光も遂に折れて、西郷の流罪を赦される事となりました。
そこでこの日2月22日には、胡蝶丸という船が、赦免状伝達の使者を乗せて、沖水良部島に向ったので、さすがの西郷も狂気乱舞せんばかりの喜びで、吉井幸輔や西郷信吾(後の西郷従道)等の使者に迎えられた時の如きは、
「おいどんの羽織はどこじゃどこじゃ」
と、配所の室内をぐるぐると探しまわりますが見当りません。
見当たらぬ筈で、嬉しさの余り自分の小脇に抱えた羽織を探していたのでした。
ちなみに、その羽織とは先君島津斉彬候から拝領のものでした。
今度こそ生きて再び還れぬかと覚悟していた西郷にとって、更に春がめぐって来た。
感慨無量の余り詩を賊したのが、
「別離夢の如く又雲の如し、還り去らんとし欲し来れば涙紛々。獄裡の仁恩謝するに語なし、遠く煙波を凌いで君恩に痩せん」
というものとなります。
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