- 2010年3月16日 01:50
- 1862年(文久2年)

薩摩の島津久光が、安政大獄の赦免運動や、幕政改革等の重大使命を負うて、鹿児島を出発上京の途に上ったのが、1862年(文久2年)3月16日の事でした。
これに従ったのが小松帯刀、中山尚之助、大久保一蔵(後の大久保利通)、有馬新七等、堂々一千余りの護衛でありました。
時に安政大獄の後を受けて勤王、佐幕の両党は暗々裡に対立して、天下の形勢は頓に険悪、そこで護衛隊長の有馬新七も、今度の上京ばかりは到底生きて還れまいと覚悟を定め、最愛の妻に離縁状を遺して発足したという逸話が残っています。
一方西郷吉之助は久光の上京に正面から反対でした。なるほど久光も藩主の後見役で大人物には違いありませんが、初めて京都、江戸の都に上って将軍を始め天下の列侯と時局を談ずるには、少々貫目不足だと見ていたのでした。
然しその時は既に参府の事も発表された後であったので、久光は是非出府するという。西郷はわざと病気養生を理由に、指宿の温泉に引篭もって、参府に加わらぬつもりでありましたが、大久保一蔵が
「この際はどうしても出て貰わねば困る」
と訴えたので、西郷は村田新八を伴い、一足先に鹿児島を出発、3月26日に馬関(下関)で待合わせる約束で、それまで九州各藩の形勢をうかがい馬関に来てみると、平野国臣を始め豊後岡藩の勤王の有志20数名が待構えていて、
「我々はこの度の久光公の上京を機として、愈々倒幕の烽火を挙げるのだ」
と、甚だ穏やかではありません。
西郷も考えざるを得なかった。この形勢から押して見ると、一刻も早く大阪表に上って有志間の連絡をとっておかぬと、如何なる一大変事が起こるやも知れぬ、安閑として約束の26日まで待ってはおられぬとあって、その4日前の22日の夜、同藩の同じ勤王の志士森山新蔵が廻してくれた船に乗り、急ぎ大阪へ向けて出発した。
即ち西郷が久光の怒りに触れて、再び奄美大島へ流罪となったのも、この時以来の行い違いが祟ったのでした。
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