- 2010年3月22日 00:01
- 1863年(文久3年)

14代将軍徳川家茂
幕府も14代徳川家茂の代となった1863年(文久3年)3月22日、京都では勤王の志士の間に、猛烈な将軍東帰反対運動が起ります。
当年18歳の将軍家茂は、天下の趨勢に鑑み、従来の幕府中心主義から一歩も二歩も譲り、大義名分に服して京都へ参内、朝廷尊崇の実を挙げました。固より将軍の後見には一橋慶喜あり、越前の松平春嶽あり、その補佐宜しきを得て、幕府の旧弊は着々として改革が断行されていました。
即ち同年3月11日の加茂の行幸には鳳輦に御供し奉って200年来の盛典を復興、君臣の道を全うした事は誠に見上げたものでした。斯くの如く将軍自ら朝廷に奉仕することは、折から紛々たる国内の与論を鎮め、人心を安んずるものとして、勤王の志士一同も大いに我が意を得たのであった。さて将軍家茂にしてみれば、第一の大役を果したものの、まだ攘夷と開港の両問題が残っているので一日も早く京都を引上げようとして焦っていたのでした。
そこで3月23日には、御暇乞のため参内し、直に京都を出発して帰府する筈でありましたが、これを知った京都の勤王党一同が承知しません。この際将軍は京都に留まり、いつまでも変らぬ恭順の意を示すべきである。若し強いて江戸へ帰るといういうなら、我々一党は必ず阻止して見せると、いきり立ったのが桂小五郎(後の木戸孝允)、佐々木男也、高杉晋作、寺島忠三郎、野村和作、伊藤俊輔(伊藤博文)、品川弥二郎、横山主税、田中土佐等という熱烈の士でした。
桂と佐々木は禁中に入って東帰反対を奏請。高杉、寺島、野村、伊藤、品川等は関白鷹司邸に伺侯して、同様の意見を申し述べます。
ここに危機を孕んで暗雲低迷、幕府方でも急に狽て出して、御用党の新撰組に警戒を頼んだので、隊長の芹沢鴨や近藤勇等の一党が、武力抗争なら我々の望む処と、これ又暗々裡に活躍し始めたのでした。
かかる情勢に将軍が強って帰府するとあれば、その沿道の何れかでは、必ず勤王、佐幕両党の間に、血の雨を降らさずには済むまいという形勢なっため、そこで会津藩侯松平容保が、帰府の当日となった翌23日、将軍へ直々に謁して、東帰延期を勧めて中止させたので、大騒動も未然に防がれたのでした。
そのため3月25日には、将軍家茂の代理として、徳川慶篤が京都を出発江戸へ帰ることになります。
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