- 2010年4月23日 00:05
- 1862年(文久2年)
1862年(文久2年)4月23日、維新回天の史上に一場の悲劇を演じた京都伏見の寺田屋事件が起りました。
安政の大獄の後を受けて、各地から起ち上がった鬱勃たる勤王憂国の志士は、久留米の眞木和泉守を始め、土佐の吉村寅太郎、長州の久坂玄瑞等300余人が、踵を接して京都に集まってきました。
ここに薩摩の同志有馬新七の一行は、君側の姦たる関白九条忠尚と、所司代酒井忠義とを屠って、大謀を決行しようと協議一決、有馬新七、柴山愛次郎、橋口伝蔵、橋口壮介、弟子丸龍助、田中謙助、西田直五郎、森山新五左衛門等、寺田屋で勢揃いして、何れも夜討の武装を整え、夜陰を待ってこれから出かけようという所でした。
折柄上京中の薩摩の島津久光は、寺田屋の事を洩れ聞いて愕然、奈良原喜八郎、江夏仲左衛門、鈴木勇右衛門、道島五郎兵衛、山口金之進、鈴木正之助、大山格之助、森岡清左衛門等という、腕利揃いの八勇士を寺田屋に急派し、義挙組の取鎮方を命じます。
寺田屋では両者の間に膝詰談判が開始されましたが、義に燃立って決行しようとする我々は、今更男として思い止まる事は断じて出来ない、と頑として刎ねつければ、鎮撫の使者は、君の御命令だ、今晩だけは是非共手を退いて貰わねば、我々の役目が立たぬと、互いに一歩も譲らなかったので、我慢なりかねた血気の道島五郎兵衛がいきなり、「上意討ちや、覚悟せい」と抜打に田中謙助の眉間を斬り、間一髪を容れぬ素早さで、柴山愛次郎もまた斬ります。
これを見て烈火のように怒った有馬が道島に斬ってかかり、力余って刀が折れ、副刀を抜く暇もなかったので、道島と組んで壁に押さえつけます。同士橋口が駈けつけたが重なり合っているので斬る事が出来ない。有馬は声を励まして「我偕(おいごと)刺せ、我偕刺せ」という。橋口は声に応じて有馬の背から道島の腹まで刺貫いて、敵味方共に斃したという、前代未聞の壮烈な剣戟が演じられたのでした。
弟子丸が二階から下りる所を、大山格之助が下から足を払ってこれを斃し、橋口も同様、階段の途中で槍に刺される。こうした騒ぎに、骨肉相刺して非業の最期を遂げた者は、同志側で8名、鎮圧の使者側では道島が死に、2人が重傷、その他殆んど手傷を負います。
将来を有する多望な同志が、互いの真意を掴み得ず、闇雲の裡に非業の死を遂げる、とても悲惨な事件でありましたが、殊に同志の残党田中河内介以下6名が、日向の細島に護送され、船中で斬られ、その死体を海に投じてしまったというのが、全くの惨事中の惨事でありました。
西郷吉之助(西郷隆盛)も後でこの事を知って「勤王の同志を斬るとは何事ぞ」と憤激したと云います。
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