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攘夷決行、馬関戦争の火蓋が切られる

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長州砲

江戸幕末における憂国の士の合言葉は「攘夷」の二字にありました。

門戸を開いて外国と通商を開き交誼を結ぶは以ての外、外国人が日本に接近しようとするのは、先づ耶蘇教を広め、やがて日本攻略の野心ありという見解は、200年来国民の抱いた思想で、排他的の長い伝統は幕末に到って最も濃厚となり紅毛人を蛇蝎の如く忌嫌ったのでした。

というのも天草の切支丹一揆以来、外国船の度重なる海辺侵入事件や、開港条約の強請や、国粹尊重等の種々の経路が因をなして、憂国の志士の間に与論囂々と起り、遂に幕府も1863年(文久3年)5月10日を期して、攘夷実行を命令します。

恰かも好し、この日アメリカの商船ベンプローク号が、長門の府中に碇泊しようとしたので、手薬煉引いて待っていた長州藩の兵が、いきなり攘夷実行の第一砲を放って、先づこれを追払います。下関事件、いわゆる馬関戦争の火蓋はここに開かれたわけで、更に引続いて5月23日にはフランスの軍艦キャンシャン号、同26日にはオランダの軍艦メデューサ号が、下関海峡を通過するのを狙って砲撃されます。

これを聞いた米国軍艦ワイオミング号は、6月1日抗議のために下関にやって来た処、またも砲撃されたので、艦上からも応戦発砲、長州藩船2隻を撃破して東方に引上げたのでした。

6月5日、フランス軍艦が報復のため下関砲撃に来航します。翌6日には高杉晋作奇兵隊を組織して外敵に備えます。長州の攘夷熱当るべからざるものがありましたが、残念ながら兵器の上に於て、到底彼らの敵ではなく、こちらの着弾距離外にある外国船の砲撃が、馬関の各砲台に命中して、遂に敵兵が上陸するという具合に、馬関戦争の結果は長州方の敗北に帰したのでした。

馬関戦争
フランス艦隊によって占領された砲台

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