- 2010年6月 8日 00:08
- 1863年(文久3年)
土佐藩の勤王家平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太の3名が、青蓮宮の令旨を奉じ、土佐藩の主な門閥家に迫り従来の俗論党佐幕派の空気を、尊王攘夷の一色に改革させようと促したのが、却って危険人物視され、1863年(文久3年)6月8日、3名に、切腹を命じられて、見事に割腹して相果てたのでした。当時平井が29歳、間崎が30歳、弘瀬が28歳の若盛りでありました。
これを知って憤激したのは、同藩の志士武市半平太でした。

彼は麻上下に威儀を正し、山内容堂公の面前に迫り、
「平井、間崎、弘瀬3名に対するこの度のご成敗は、誠に意外千万、沙汰の限りと存じます。三君何れも我が藩の忠臣として見る処ある傑物でありました。然るに思いがけなくもこの度の御処分は何事でありましょう」
と詰責し、容堂公が何か言おうとするのを押え、尚も語を強くして、
「お上はいつも徳川家の御恩のことを仰せられますが、二千年の皇恩と、二百年の私の恩とは、何れを重しとなされますか」
と何の恐るる色もなく諌めたので、流石の容堂公も答弁に窮したという逸話があります。
後に、平井、間崎、弘瀬の3名に対しては、1891年(明治24年)末、従四位を追贈される事になります。
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