- 2010年6月 9日 09:53
- 1853年(嘉永6年)

アメリカの提督ペリーが、日米国際関係の交渉のため、浦賀に来航して、鎖国主義の長夜の夢を醒ましたのが、1853年(嘉永6年)6月3日、それより6日目の9日には、幕府の代表で浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄、井戸石見守弘道等が、久里浜で正式にペリーと会見する事となりました。
この日朝から、天気晴朗、米艦サスケハンナ号から13発の祝砲が発せられたを合図に、15艘のボートが久里浜に漕寄せられ、ペリーを始め、水兵、楽隊等300名ばかりが国書を捧げて上陸します。
これに対して日本国の警備兵5千を下らず、海岸から山麓へかけて、総勢物々しく整列している。もしまかり間違って敵対行為となれば、5千の兵の外に、山中にまで伏兵の用意があったというが、米国側でも4隻の軍艦から榴弾砲を放ってこれに応ずる覚悟がありました。
しかし、幔幕をめぐらした假屋の裡で、歴史的会見の幕も僅か2、30分の間に、極めて平和の裡に行なわれ、近江の膳所産の日本茶を啜りながら、
「おお甘い茶だ、将来日本との貿易には、生糸とこの茶を忘れる事は出来まい」
と、先づペリーが目をつけたという逸話もこの時でありました。
太陽暦では7月14日の盛夏で、日本の警備兵の中には、日射病を起して倒れた者40数名があったと云います。
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