- 2010年6月10日 09:12
- 1864年(元治元年)

伊藤俊輔(左)と井上聞多(右)
井上聞多(後の井上馨侯爵)と伊藤俊輔(伊藤博文公爵)とが、馬関戦争の報に驚き、遊学中のロンドンから、急いで帰朝したのが1864年(元治元年)6月10日の事でした。
その前年の5月12日、海外の文化に憧れた両人は、手に手を取って外国船に乗込み、ヨーロッパ遊学の密航を企て、先ず英京ロンドンに上陸して、当時日本とは格段の先進国あった彼の地の新文化に驚異の眼を瞠り、政治に学術に風俗に、あらゆる点に於て大いに学ぶ処があり、翻って立後れた祖国の文化を歎き、鎖国主義の幣をつくづくと感じたのでした。
滞留一年も充たぬうちに、たまたま故国の長州が、攘夷主義を実行に移し、外国船と放火を交えて戦闘していると伝え聞き、両人共事の意外に駭然としたのでした。
西洋諸国とは交誼を厚くして、宜しくその文化を移入すべきであるのに、却って外国船を打払うというのは時代錯誤であり、世界の情勢を知らぬ井の中の蛙だと嘆じ、とにかく一刻も早く帰朝して、大事に至らぬうちに和睦をした上、藩の重役をも説いて、広く国際情勢の大局に目覚めさせるのは、我々にとって刻下の急務である。同時に藩へ対する忠節でもあると言うので、折から日本向の便船を幸、俄かに帰朝、横浜に着いたのは6月10日でした。
先ず横浜の外国公使館で、英、米、仏等の各国公使と面会して、
「この度の交戦に就いては、是非とも自分達に仲裁を任してくれ」
と諒解を得た上で、同月25日には城内に入って、藩主を始め重役達とも会して、滔々と内外の情勢を論じ、鎖国の非を述べたのでした。
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